[引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋]


       若草山の山やき

序 章  青山四方にめぐれる国

第1章  夜明けを迎えて

第2章  文明開化のあしおと

第3章  堺県のもとで

第4章  苦闘の再設置運動

第5章  奈良県の誕生

     勅令第59号

     知事を迎えて

     県  会

     軌道に乗る県政

     十津川の大水害

     実現する夢

終 章  それから100年


第5章  奈良県の誕生

勅令第五十九号

置県の内諾

 明治20年10月6日、一行は松方正義大蔵大臣の指示で伊藤博文総理大臣のもとに出頭した。そこには山県有朋内務大臣も同席していた。前夜からすでに松方によって、減租を認めないかわりに一県独立を了承してやってほしいとの要請があったのだろう。一同は伊藤・山県両大臣から直接、宿願の奈良県再設置の内諾を得ることができた。さっそく、山県の指示によって、大和一国独立の必要性を説明する具体的な文案が内務省で練られることになった。
1、大和の地勢や人情は摂津・河内・和泉と違い、当然経済面でも異なる。
2、摂・河・泉の議員は治水のことに、大和の議員は道路のことに執着する。
3、大和の税金は地元に還元されにくい。
4、大阪府会における大和の議員は少ないから、議場ではいつも不利である。
5、近ごろ大阪府の地租は減額となったが、大和には適用されず、それは地方税にはね返ってくる。
6、もともと、大阪府は広すぎるので、大和を独立させてもおかしくはない。
7、大和は災害も少ないから、将来あまり費用がかからないだろう。

 このような「奈良県設置ノ件」の議案は、山県から、10月24日の閣議に提出されて了承を得ている。
そのうえで、元老院会議にまわされた。元老院は国会開設までの立法機関であったため、どちらかというと政府が優位に立つ場合が多かった。したがって、ここまできたからには今回の置県の筋書きは決まったといってよいだろう。事実、10月29日に招集された元老院会議では73人の議官中、出席は42人。そのうち37人の多数で可決した。
ところで、この日、議官の税所篤は欠席している。かれはもと堺県令で、大和のこともよく知っていたし、再設置運動の応援をしつづけてきた。すでに、税所は奈良県再設置のときには、ぜひ知事にと請願委員から要請されていたし、総理大臣や内務大臣も税所の起用に賛成していたというのにどうしたのであろうか。


・誕 生

 再設置運動をはじめて以来苦節6年、ここにようやく宿願の新生奈良県が誕生したのである。恒岡直史ら、この運動に心血をそそいできた有志たちの胸中にはどのような思いがかけめぐったのであろうか。

朕奈良県設置ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
  御 名 御 璽
    明治二十年十一月四日
               内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
               内 務 大 臣 伯爵山県有朋

勅令第五十号
 奈良県ヲ置ク
   県庁位置  大和国添上郡奈良
   管轄    大和国一円

 この勅令をのせた官報の発行は10日であった。「朝日新聞」は、この日の午前10時10分東京発の電報を受けて、さっそく号外を出した。また、「大阪日報」は、この日の夕方、新しく置かれる奈良県のおもな人事を東京からの電報でキャッチした。すでに11日づけの版組みは完了していたので、紙面の右枠の外に、縦長に小さく特別記事にした。知事には元老院議官の税所篤、書記官には広島県書記官の平山靖彦、・内務省衛生局次長の大塚慊三郎、さらに警部長は内務省警保局員の田中貴道が任命されたという報道である。
 つづいて、12日には大蔵省主税局員の磯貝信行が収税長に発令された。磯貝はかつて大阪府収税部にいたため、奈良県の事情をよく知っているとして就任を求められたのだろう。

 こうして首脳陣が決まり、新奈良県発足の準備が急がれた。さっそく、内務省内に奈良県出張所が開設され、連日税所知事、大塚書記官、田中警部長、磯貝収税長らが顔をそろえ開設事務にあたった。平山書記官は広島県の残務処理で、上京は少しばかり遅れた。内務省は、できるだけ早く奈良県へ赴任するよう内命を出していたが、税所知事らは平山が到着するのを待って、そろって奈良入りすることを決めていた。

・大阪府会の混乱

 奈良県再設置の手続がすすめられていたころ、明治20年の大阪府通常府会が11月1日から同月13日までの日程で進行していた。初日は建野郷三府知事の演説にはじまり、平穏に終了した。第2日は、議員51人の出席を得て午前10時15分に開会、21年度の地方税予算審議に入ろうとした。もうこのころになると、奈良県が置かれるということは多くの人が知っていたのであろう。そのためでもあろうか、突然、出席議員のなかから、恒岡直史府会議長の辞職勧告の建議案が提出され議場は一時混乱した。「大阪日報」は、
「恒岡議長は前回の府会も大和の地租軽減と大阪鉄道のことで奔走し欠席した。今も上京中である。電報で辞職をうながしたい」などの辞職勧告賛成の発言が区部選出議員らから続出したことを伝えている。そんななかで、反対発言をしたのは大和選出議員の堀内忠司であった。かれは、
「議長を選んだのは、わたしたちである。不都合があるとしたら、議員全員の責任なのだ」と恒岡をかばったが、この意見は入れられず、論議の末、辞職勧告委員5人が選ばれ恒岡の説得にあたることになった。いうまでもなくこの委員には大和側の議員は含まれていない。

 さて、上京中の恒岡あてに帰阪をうながす電報が送られたが、入れ違いに3日夜、恒岡は大阪へ戻ってきたため電報は受理していなかった。4日朝、恒岡が府会事務局へ帰阪届けを提出したので、辞職勧告委員はさっそく恒岡の宿舎で会談した。すでにその用件を察して、恒岡は辞職勧告の話が出るまでに議長職の辞任を表明、ただちに辞表を預けた。すでに奈良県再設置のことを知っていた恒岡にとって、いつまでも府会議長をつづける気持ちはなかったのである。週明けの7日午前になって議長選挙をおこない、これまで副議長であった大三輪長兵衛が当選している。午後に副議長を選出する予定であったが、郡部議員の過半数が欠席したため、府会は散会した。それ以後も空転がつづいた。
 このころになると、奈良県再設置のことはうわさとして広がりはじめていた。たとえば、8日づけの「大阪日報」は奈良県設置の予想を記事にしているし、翌9日づけには、奈良県再設置のときは恒岡を書記官に起用かと風説を流している。さらに、11日づけの新聞は、11月10日午前11時30分の東京発電報として、「奈良県設置」を報じた。12日に建野知事は、議会に奈良県設置を知らせ、府会の中止を通達している。しかし、府会は浮き足立っていたのだろう。もはや議員の大半が退出していたという。これで大和選出の府会議員17人は資格が消滅し、新奈良県の選挙から出直しをすることになったのである。

・多忙な引きつぎ事務

 急に知らされた奈良県開設にともなう事務は煩雑をきわめた。まず、大阪府庁内の各課は奈良県へ引きつぐ書類の選別をはじめた。それらは庶務課へ集められ、明治20年11月16日に第1回分は完了した。なかでも税金関係は、年度の約3分の2を経過した時期だけに、特に苦労したようだ。それでも、早出・残業をして、なんとか同日には一応の整理がついたことを建野知事に報告している。これで、いつ奈良県知事が引きつぎに来ても万全というわけである。
 ところで、新奈良県開庁のとき資金なしではどうにもならない。そこで、明治18年度以降の大阪府の決算のうち、大和国にかかる分を抜き出して、比例割の計算をはじめている。そのほか、継続中の事業もある。建物その他の固有の財産も、評価のうえ分割目録をつくる必要があった。今のようにコンピューターもないとき、これは大変な作業であった。こんなことから、とりあえず開庁式までに3万7,000円を奈良県へ引きつぐこととした。なお、その後奈良県分の引きつぎ額は31パーセントと決定され、新県発足後に追加分としてさらに2万7,391円を引きついだ。そうして、簿冊・器具類の荷づくりと運搬である。第一陣で長持23棹分の搬出であったから、大和へ向かうこの行列はかつての大名行列を思いおこさせるようなものであったろう。

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知事を迎えて

・喜びにわきかえる人びと

 地元の大和では、さっそく新知事らが着任するものと考え、明治20年11月17日に歓迎会を奈良で開こうとした。しかし、知事らの着任予定が変更されたので準備会に切りかえた。来会者は、酒井有、玉置格、益田俊助、森脇駒治郎ら180人であった。また、20日には興福寺南円堂で有志が集まり、知事らの歓迎について具体的に協議をすすめた。決定した案は、
1、奈良の市中を5区に分け、各区から5人ずつ、計25人が県境を越えて国分で出迎えること
2、別に160人が龍田まで迎えに行くこと
3、旧府会議員、各郡長は神戸港で出迎えること
4、奈良に入った一行をそのまま県庁舎へ案内し、そこで接待すること
という内容である。

 さらに、知事一行が奈良に到着すると、提灯をつるし、大仕掛けの花火数百発を打ち上げることを決め、その費用も集めた。ところが、こんな派手なことをしては自ら倹約家と称している知事のきげんをそこなうのではないか、むしろ、県庁新築の費用にあてる方がよいのではないかという人もいた。あれやこれやのなかで、到着時に、奈良の南の入口で奈良県設置の文字入り花火数発を上げるにとどめることで落ちついたという。

・知事の来阪

 事務引きつぎや歓迎準備はすすんだが、税所篤知事以下の東京出発はたびたび延期された。県庁開設事務の準備に手間どっているという説や税所の病気説などが飛び出すなど、いろんなうわさが新聞にも紹介されるありさまであった。奈良県の人びとは、じりじりとした気分で知事の赴任を待ちこがれていた。
このころは、まだ東海道線も全通していないので、横浜から神戸への海路を利用するのが一般的であった。税所知事ら一行は、ようやく明治20年11月27日の午後4時40分、神戸港に着いた。出迎えは恒岡直史・中村雅真ら40人ほどであった。一行は、海岸通り近くの旅館で休憩、同6時、三宮発の列車で知事と平山書記官らは出迎えの人とともに出発、あとの人たちは2時間後の列車で大阪に到着した。

 この夜、知事・書記官は北浜、収税長らは中之島の旅館に落ちつき、関西での第一夜を過ごしたのであった。
翌28日午前8時には、税所知事ら一同はそろって府庁内に用意されていた奈良県事務取扱所に入った。引きつぎ事項は多く、簡単に終わりそうにもないので、知事は午後になっていったん堺に持っていた別荘に引きあげた。29日も前日につづいて府庁内で事務処理に専念した。
この間、奈良県の開庁式を12月1日におこなうことを決定した。新しい県の人事もすすめられ、大阪府時代の大和の行政にかかわった職員の多くは引きつづいて奈良県に任用されることになった。

・ようやく奈良へ

 大阪府からの引きつぎは、なんとか順調にいった。明治20年11月29日の夕方、建野郷三大阪府知事招待の宴席が北浜の楠本万助亭で開かれた。奈良県側からの出席は税所篤知事、平山靖彦書記官、磯貝信行収税長、田中貴道警部長、一樋作兵衛議事課長らであった。
一方、大阪府から転任が決まった職員らは29日に奈良入りしたが、庶務と収税の課員数人は会計事務の引きつぎが遅れて12月1日になっている。また、奈良県の金庫としての役目をはたさなくてはならない第六十八国立銀行は郡山柳町にあったが、その奈良出張所を昇格させて、三条通りに支店を開設することに決めていた。県庁所在地にはじめて銀行支店が誕生するわけだが、予定の12月1日が遅れて翌年1月12日に開店した。11月30日で内務省内の奈良県出張所も、大阪府庁内の奈良県事務取扱所も閉鎖された。東京残留の大塚書記官はこのころ、横浜から乗船することになっていたが、実際はさらに遅れた。

 さて、いよいよ知事一行の奈良入りである。
はじめの発表では、大阪を12月1日午前4時に出発して奈良に到着、そのまま開庁式に出席する予定であった。ところが、新聞記事によると税所知事、平山書記官らは11月30日夕方、大阪北浜の宿舎を出発、いったん堺の税所の別荘へ入った。そしてどういうわけか、午後8時半ここを出て、同夜10時15分に府境近くの国分に到着、橋本屋で休憩した。ここまでは人力車に乗った知事と書記官の二人で、従者ひとりが付き添うだけであった。恒岡・中村ら旧府会議員のほか、井戸義光、辻川半三郎、鳥居武平らが出迎え、それぞれ歓迎の言葉を述べたという。
11時5分に出発、県境を越えた葛下郡王寺村からは御所郡役所の郡長が先導した。12時に龍田神社前の旅館に着き、小休止となった。ここでは140人あまりが名前を書いた旗を立てて出迎えている。ここからは郡山警察署長が先導した。零時45分、郡山の菊屋に到着し、知事らは夜食をすませた。その後、知事一行は午前2時奈良登大路町に用意された官舎に入り休息したのであった。そのころの人力車は車輪がゴムタイヤではなく鉄輪であったから、音も高く響いた。当然ながら乗り心地は快適ではない。寒夜、大変な赴任であったことだろう。

・奈良県開庁式

 明治20年12月1日は木曜日、曇り。この日、奈良県開庁式が挙行された。新県庁舎にあてられたのは奈良公園内の旧寧楽書院である。さて、午前11時、県庁の正面2階へ書記官・警部長・収税長ほか県職員、招待者ら約200人が正装で参集し、式場は超満員になった。同20分、稲葉奈良郡長の先導で税所知事が着席、平山書記官が知事の祝辞を朗読した。
明治20年12月1日を期して、ここに本県の開庁式をおこなうにあたり、皆さんとともに県づくりにつくしましょう。それには、県全体の一致団結が必要であります。気をゆるめないで自立の努力をしましょう。さらに、質素・倹約をして、後日の繁栄を願いましょう。

 この呼びかけを受けて、有志総代の大森吉兵衛と中山平八郎が答辞を読んだ。知事の退場まで約20分のセレモニーであったが、参会者はいろいろな思いでこの日このときを迎えていた。正午からは、県庁舎の東、興福寺の寺務所を有志者接待所にあてて、知事をはじめ官民一同の懇親会を開いた。ここにも約200人が集まり、奈良県の開庁を祝った。新知事歓迎行事は、どちらかというと質素におこなわれた。平日の午後に派手な会合を持って、官吏服務規律に違反してはならないと言い出す者もあって、花火も中止することになった。開庁式当日は、奈良の町では家ごとに日の丸をかかげ、県庁周辺では提灯をつるし、各小学校の子どもたちは県庁前を行進して祝いの気持ちを表わした。ある町では山車を引き出す者、花火を打ち上げた人もいたから、やはりお祭り気分の一日であった。

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県 会

・選 挙

 明治20年11月18日になって、政府は奈良県へ県会を開く手続きと議員選挙のことを指示してきた。大阪府庁内の奈良県事務所はさっそく作業をはじめ、試案のまとめに取りかかった。試案では、議員定数を近府県のように単純に人口割で計算するのではなく、地租と人口を組みあわせて計算する方法をとった。その結果、各郡の定数は、添上・吉野郡はそれぞれ4人、添下・山辺・高市・葛下の各郡は3人ずつ、つづいて2人定員のところは平群・式上・式下・十市・宇陀・葛上の各郡となり、広瀬・忍海・宇智の各郡はひとりずつとなった。奈良県会議員定数は35人に決まったのである。明治21年度の地方税収入支出ついては県会で審議するので、事務は急がねばならなかった。
 この県会選挙の事務は各郡長に委任されたから、各郡役所は大変な忙しさになった。当時の選挙法によれば、被選挙権を持つのは満35歳以上の男子で、その府県内に本籍を持ち、3か年以上居住していること、さらに府県で地租10円以上を納めている人に限定されていた。これに対して、選挙権は満20歳以上の男子で、これもまたその郡区内に本籍があって、同じ府県内で地租5円以上の納付者であることが条件であった。いわゆる地租による制限選挙であった。当時、奈良県の有権者数は2万人あまりであったし、被選挙権者数となると1万2,000人あまりしかなかった。

・大仏殿の回廊で

 各郡長にまかされた選挙は、明治20年12月17日から各郡で実施された。投票は選挙投票用紙に、候補者名と選挙人の住所氏名を書き、郡役所に出向いて提出する方法であった。12月27日になって、知事名で県会議員の当選者が告示された。新県議になった人で、大阪府会時代から引きつづいて当選したのは13人である。同21年1月9日から3日間、奈良県再設置後はじめての県会が東大寺大仏殿の西回廊を臨時会議場として開かれた。初日は各議員が参集し、回廊の中央に整列、開会式を待った。午前10時40分過ぎ、平山書記官は一樋議事課長とともに入場した。
 ところで、税所知事は無理をしたのであろうか。同年1月3日から入院している。建野大阪府知事も見舞いの医師を派遣しているほどで、県民にとっては大変な驚きであった。知事はまもなく退院し官舎に戻ったが、6月になると病気治療のため上京した。その間、平山書記官が知事代理で県政を預かったのである。このため平山書記官がつぎのとおり式辞を代読している。
本県新治ニ付、始テ県会ヲ組織シ、正副議長、常置委員ノ選挙及其定員並旅費月手当ノ定則議定ノ為メ、茲ニ臨時県会ヲ開ク
 各県議はただちに抽選で席に着いた。引きつづいて正副議長の選挙である。今村勤三が仮議長となり、記名投票をして今村が26票で議長に当選した。新議長のもとで今度は副議長の選挙をおこない、恒岡直史が23票で当選したが、固く辞退したので、再選挙の結果堀内忠司が11票で当選した。堀内も辞退したが、強いすすめもあったから副議長を受けている。翌10日の県会は常置委員5人を決めるなどして11日に閉会した。

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軌道に乗る県政

・夢の実現に向けて

 奈良県庁の開庁式をおこない、約1か月ばかりのあいだに県会も発足させるという県職員の大変な努力がつづいた。早朝出勤や、残業あるいは夜勤が当たり前という状態であった。明治20年12月1日の「本日開庁ス」という告示にはじまり、県の指令はつぎつぎに各郡役所・連合戸長役場を通じて県民に知らされた。そして、当初は、細かい条例にあたるものはこれまでの大阪府の規則を守るようにし、混乱がおこらないように気を配っている。しかし、年が明けてはじめての県会が開かれたあとの1月13日の訓令で、大阪府時代のものがすべて適用されるのではないことを示し、しだいに新しい規則などをさだめ、奈良県政の軌道づくりに努めたのである。
 2月1日になると、収税部では「本県設置、日尚浅シト雖、稍通常事務ニ就カントス」といい、収税職員の日常の勤務方針を指示した。新県設置後の異常な多忙さは、ここにきてなんとか落ちつきをみることができたのであろう。
さて、はじめて奈良県独自の予算となった明治21年度予算は歳入歳出総額22万5、094円あまりであった。歳出のおもなものは郡吏員・戸長以下給料旅費41.8パーセント、警察費21.1パーセント、土木費19.0パーセント、教育費4.9パーセントである。これが奈良県最初の財政の規模であった。

 条例、規則の整備も急がれ、教育・土木・災害対策・殖産興業など、独立県の面目に必要な案件が県会でつぎつぎに建議された。なかでも、土木行政つまり道路の新設・改修が緊急課題となっていた。さっそく、奈良街道や郡山街道など14の仮定県道を指定し、これらの改修には地方税による補助を決定した。たとえば、吉野と平野部を結ぶ芦原峠の道路計画を多額の地方税補助をあててすすめたが、難工事のため、とりあえず壺阪越えの新道を開いた。

・生まれ変わる町や村

 発足後、半年ばかりの奈良県で大きな課題となったのは、明治21年4月25日に公布された市制・町村制である。これは憲法制定を前にして、地方行政制度を整えておこうとする政府の政策であった。大和は明治元年、5町(奈良・郡山・田原本・松山・御所)と1,489か村にわかれていたが、町村制実施の前には183町(これは奈良・郡山などの町内を集計している)と1,306か村になっていた。そして、これらの町村をさらに統合して、新しい体制をつくりあげようとしたのであった。町村制の実施は、同22年4月1日と決められていたから、町村の整理統合にはかなり強い姿勢が必要であった。いずれにしても、奈良県が直面した大事業であった。
 県はさっそく実施案の作成をすすめ、各郡に原案作成のための資料調査を命じた。6月末になると、平山書記官は各郡長あてに、新町村の区域・人口・財政そのほかを、地図とともに8月15日までに報告せよという指令を出している。合併後の戸数は、政府が示した基準ではおよそ300戸以上だったが、奈良県では500戸程度を考えた。さらに、地形や人情を参考にして計画を立てること、新町村の名前はなるべく歴史上のものを保存し、民情にそむかないようにするなどの注意も与えている。郡長は1か月半のあいだに調査をして県へ報告しなくてはならないので、戸長や町村総代らの意見を求めたうえで、急いで原案をつくった。県はその原案を査定し、郡長に確認を求めた。話がまとまったところから、郡長の副申を添えた合併願いを知事に提出した。町村合併案の作成はおおむね順調にすすみ、9月ごろにはほぼ出そろっている。ただ、郡長が主導する場合があったので、一部では住民の反発もあった。対等合併の方針であったから、新町村の呼び名で難航したところや、郡長が独走したため最後まで混乱したところもあった。県はいらいらしながら合併願いを待ったが、話がまとまらないところでは郡長案を廃し、住民の意見をとり入れて合併事業を乗りきろうとした。
 県知事は、明治21年末から翌年1月にわたって町村制施行案を内務大臣に上申することができた。政府は同22年2月26日づけでこれを認可し、4月1日から施行することを決定した。新しく誕生した町村は、これまでの約10分の1にあたる10町と142村・2組合村となった。このとき町制を施行したのは奈良・郡山・田原本・松山・八木・今井・御所・高田・五條・上市である。つづいて新町村の役場も決定したが、新町村長の選挙までは旧戸長が事務取りあつかいとして、新町村の行政を取りしきっている。ともあれ、再設置後はじめての大事業は終了した。

・県都に市制を

 さて、市・町村制の施行を機会に、県庁の置かれた奈良の町を市にしたいと人びとは考えた。新町村の合併案がまとまったなかで、県では県庁所在地を市にするための調査を奈良郡役所に命じている。県会も市制の建議をした。
しかし、添上郡法連村が合併に反対したから、市になるための人口が不足した。それでもなんとかならないかと県が内務省に問いあわせると、「設置後、日が浅い。他日適当なときに市にしたらよい」との回答だったので、このときは市制施行をあきらめた。そのかわり、5か所の連合戸長役場に編成されていた奈良の町はひとつにまとまり、奈良町として新たに発足したのである。
 市制の実施は奈良の町民の強い願いであった。明治25年には大阪鉄道が大阪湊町まで開通し、同29年には奈良鉄道によって京都〜奈良間が結ばれた。

 奈良公園の整備もすすみ、県庁舎も新築され、県都としての体裁が整っていった。また、さきに問題となった人口も2万9,000人をこえたので、市制施行の気運もしだいに高まっていった。
同29年12月、奈良町会は13人の市制調査委員を選んだ。委員たちは約10か月の調査の結果、市制は有益かつ急務と答申した。それを受けて、翌年11月15日の町会は満場一致で市制施行を求めた。町は12か条の理由をつけ、県を経由して内務大臣に上申した。内務省は、同31年1月20日づけで、同年2月1日から市制施行を認可すると決定した。すでに、認可されることを予定していた奈良県は、さっそく安元彦助を市長事務取りあつかいに任命して、市会開設の準備にあたらせている。4月2日、3日には市会議員の選挙がおこなわれ、30人が当選した。はじめての市会は4月9日に開かれた。3人の市長候補が選ばれ、県を経て内務大臣に申請し、桐島祥陽が任命された。桐島は添上郡長の経験もあるベテランの行政官として、初代奈良市長に迎えられたのである。

・新しい県庁舎

 新生奈良県の県庁舎は、旧寧楽書院の建物を修理して使っていたが、新しい県庁舎を建てることは多くの人たちの願いであった。再設置後のはじめての臨時県会で、早くも議員の手当の半分を寄付して、とりあえず県議事堂の建築費にあてようという提案があったほどである。明治23年暮れの通常県会にようやく庁舎の改築案が提出された。しかし、改築費1万700余円という経費の問題もあるが、県庁の位置が北部にかたよりすぎるという批判の声がおこり、このときの改築案は具体化しないままに終わっている。同26年の県会でも、改築問題は取りあげられたものの、「民力休養」ということで否決された。翌27年になって、3代目の古沢滋知事は県庁舎・議事堂の改築の必要をとき、7月に臨時県会を召集した。改築案はいったん否決されたが、これにひるむことなく再議のあつかいで可決させた。
 さて、新築の場所だが、公園内には適当なところがみあたらないので、書記官の官舎敷地に建築することになった。ところが、この土地は南北に長く、高低差があって、工事には苦労したようだ。大きな社寺をかかえている奈良であるのに熟練した技術者がいなかった。ほかにも鉄道工事や公園改良事業があって人手が不足していたためだという。
それでも、基礎工事は同28年3月なかごろには礎石工事まですすみ、なんとか秋になって完成に近づいた。総建築費は2万3,102円9銭7厘であった。同年12月15日、落成と移庁式が午前9時からおこなわれ、翌16日には新庁舎に移転し、さっそく事務をはじめている。それから70年、今の県庁舎ができるまで、その建物は県民になじみ深いものであった。

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十津川の大水害

・暴風雨

 明治22年の8月18日から20日にかけて、吉野郡の山岳地帯をすざましい暴風雨が襲った。17日の夕方から吹きはじめた風は、18日になると雨まじりになり、夜なかにはこれまでになかったような豪雨をともなうようになった。雨水は滝のようになって山肌を流れ落ち、みるみるうちに川は水かさを増した。翌19日には雷が鳴りひびき、暴風雨はますますはげしさを加えるようになった。以前から風化がすすんでもろくなっていた十津川郷の山肌に、前日の夜からの雨水がしみこんでいったため、19日夜になるとあちこちにひびわれができ、地すべりや山くずれの危険がせまってきた。19日の夜なかから20日の早朝にかけて、ついに大規模な山くずれがはじまった。十津川郷内のあちこちの山肌が、大きくけずり取られ、音を立ててくずれ落ちた。谷底に落ちこんでいった土砂は、その途中で人家をなぎたおし、田畑を押し流した。川の水はせき止められ、いたるところではんらんがおこった。このようにして、十津川郷は想像を絶する被害を受けたのである。

・被害のありさま

 十津川郷6か村の受けた被害は大きかった。全戸数2,403戸のおよそ4分の1にあたる610戸がこわされたり、流されたりした。168人がなくなり、十津川郷出身で宇智吉野郡長の玉置高良も、北十津川村の宇宮原で山くずれにあって重傷を負い、9月3日には死亡している。十津川の郷民がこれまで長年にわたって山肌を切り開いてつくってきた田畑も、3分の1ほどが押し流され、十津川郷全体の損害金額は、124万円あまりに達した。

・はじまった救援活動

 災害の知らせを受けた役所ではさっそく救援活動を開始した。まず、下市の警察署では、明治22年8月22日には、早くも警官ひとりを大塔村まで派遣して被災のようすを調べた。また、宇智吉野郡役所でも、23日には役人2人を現地に向かわせ、救援活動にあたらせようとした。郡役所の役人は24日に十津川郷に到着し、翌25日には当座の食糧として郡役所から米と食塩などが届けられている。また、災害のようすが新聞に報道されると、全国各地から救援の物資が届けられるようになった。被害のあまりの大きさにどうしてよいかわからず、ただ山菜を掘りおこして飢えをしのぐだけだった十津川郷の人びとも、届けられた救援物資に力づけられ、ようやく復旧に向けて行動をおこすようになっていった。しかし、くずれ落ちたりうずもれたりした道路の修復が、場所によっては手間どることもあり、また人家が谷あいにちらばっていたため、救援活動は思うようにはすすまなかった。しかも、9月10日から11日にかけてふたたび暴風雨が吹き荒れたため、せっかくもとに戻りつつあった道路は再度寸断されてしまった。家族を失い、家や田畑を流された人びとは、ほとんど絶望的な状態に追いつめられていった。

・北海道への移住計画

 このころ、十津川郷の被害者たちを北海道に移住させるという計画がおこってきた。はじめは、ハワイなどへの海外移住や、県内の大台ケ原とか福島県の阿武隈川上流などの未開地への移住が計画されていた。しかし、復旧のためがんばってきた前皇宮警部の前田正之や司法省参事官の千葉貞幹ら十津川郷出身の政府の役人のなかには、南北朝の動乱のころ南朝に忠誠をつくして以来、明治維新までの長いあいだ国のために活躍してきた十津川郷の由緒を考え、日本の北方を守る名誉もになえるという北海道への移住計画をすすめたのである。
 明治22年9月7日に前田たちは、北海道庁長官の永山武四郎に十津川郷の被災者を北海道で受け入れることを依頼した。永山はその計画に賛成し、奈良県知事の税所篤に北海道の土地がよく肥えていることや、生活が一般に考えられているほど大変ではないことなどを伝え、受け入れに協力したいと申し出た。税所も、移住する以外に被災者の生活をたてなおし、十津川郷をもとの姿に戻す方法はないと考えているが、今は救助のことが第一であって、被災者の気持ちを思うとすぐには北海道への移住を切り出すことはできないと答えている。

・とまどう被災者たち

 こうした準備をしておいたうえで、前田正之たちは明治22年9月中旬に北海道移住新十津川創立勧告書というくわしい移住計画書をつくり、郡役所をとおして被災者たちに送り届けた。このままでは復旧がむずかしいことを感じていた郡役所でもこの計画に賛成し、被災者の説得にあたることになった。9月17日には郡役所が中心となって、十津川郷6か村の村長会が開かれた。村長会では長い時間をかけて話しあいがおこなわれ、ついに、

1、今の場所に住むことがむずかしい者は北海道に移住すること
2、移住先は石狩地方とすること
3、翌18日から移住希望者をつのること

 という3か条のことを決め、北海道への移住計画が本各的にすすめられるようになった。しかし、被災者の説得は思うようにはすすまなかった。ある者は北海道の冬の寒さや豪雪のことを心配し、またある者は北海道の大地が農耕に適するかどうかを判断できず、故郷を離れることを簡単には納得しなかったためである。十津川郷の人びとは、あちこちで寄り集まっては、ひたいを寄せあい、これからのことを相談しあった。こうしたようすをみていた宇智吉野郡役所では、北海道に移住しないときには別の移住先と仕事を自分の力でさがすように指示し、また被災者の不安をやわらげるため北海道から宮本千万樹郡長を郡役所にまねいて、実情を説明してもらった。宮本は積雪のようす、耕地の広さと豊かさ、開墾が簡単なこと、農産物が豊かにとれることなどを説明し、未知の北海道の風土に対する被災者の不安をしずめようとした。

・移住がはじまる

 ついに被災者たちは新天地北海道への移住を決心するようになった。
明治22年9月28日には奈良県知事に移住保護願いが出された。そして10月8日には知事から内務・大蔵両大臣に、移住の許可を求める上申書が提出され、10月16日の閣議で了承された。
十津川郷では10月11日に臨時の集会を開き、移住したあとのことを相談した。まず、十津川郷のなかで換金できる共有財産は、戸数に応じて分配することにした。また、郷の宝物や由緒を書いた書類など、分割できないものはそのまま十津川郷に置き、永久に両方の共有物とすることなどを決定した。

 いよいよ北海道への旅立ちがはじまった。10月18日から27日までのあいだに、600戸の2,489人が3班にわかれて故郷をあとにした。伝えられる旅立ちの風景は物悲しいものだった。18日の第1班の出発のようすを「吉野郡水災詩」はつぎのようにえがいている。

秋空千里晴朗拭フガ如シ、然レトモ送人行客離情万斛、其ノ分襟ニ臨ムヤ再会期シ難ク、行軍遅々、婦女飲泣別ヲ告クルコト能ハズ、男児モ家山ヲ願望シテ恋郷ノ情ニ堪ヘズ、漣然涙下ル者アリ

 秋の空はどこまでも晴れわたっている。しかし、送る人も送られる人も、いったん離ればなれになれば、ふたたび会うことがむずかしいことを知っているので、足はなかなか前に進まない。女性は涙があふれ出て別れの言葉さえ言うことができない。男性も故郷の家や山を振り返って恋しく思う気持ちがこみあげ、ただただ涙を流すだけの人もあった、というものである。

・新十津川村の誕生

 明治22年11月6日までに順次小樽に上陸した移住者たちは、空知郡の空知太まで移動し、そこで冬を越すことにした。あらためて移住先と新しい村名を決めるための話しあいがおこなわれた。新村名は当然「新十津川村」と決められ、入植する土地も、屯田兵になることを希望した人をのぞいて、北海道庁の計画どおり樺戸郡徳富という場所に決まり、翌23年の6月から入植がはじまった。
 同年7月には新しく40戸・178人の第2次の移住者も迎えたが、開拓には想像を絶する苦労が重ねられた。なれない冬の寒さや雪に苦しめられ、たくさんの人が病気で倒れ、こころざしなかばで死亡する人もあった。しかし、同26年には待望の文武館が開校し、翌27年になると新十津川村でつくったジャガイモを、移住に力をつくしてくれた人にはじめて送ることができた。ようやく開拓が軌道に乗りはじめたのである。
一方、残された十津川郷の人びとも災害の痛手を乗り越え、明治23年2月には6か村が合併して新しく十津川村をつくっている。
100年間にわたる十津川南北両郷の歴史はこのようにしてはじまっていった。

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実現する夢

・わきあがる殖産興業の声

 念願の奈良県再設置はようやく実現した。生まれ変わった奈良県で暮らしも産業もおおいに改善していこう、おそらくそんな気持ちで奈良県再設置の翌年、明治21年の12月県会で今村勤三議長はつぎのような意見を述べた。
「奈良県内の物産のうち、繊維・製茶・繭糸(絹糸のこと)の3業は最も重要な地位をしめるが、いまだこの改良が考えられず、奨励もなされていない。県会としては、きたる明治23年より地方税から金2,800円を支出して物産改良、実業奨励の費用にあてたい」
こうした意見もあって、県は本格的な殖産興業に乗り出すことになるのである。

・大和の農業の特徴

 大和の農業の最大の特徴は土地の生産力が高いことである。古くからかんがい施設が整い、干鰯・油かすなどを多量に使い、効率的な農業をおこなってきた結果である。こうした土地で、江戸時代には米・麦のほか、商品作物として綿花・菜種・茶・たばこなどを盛んに栽培していた。雨の少ない奈良盆地では水田のすべてに稲を植えつけると農業用水が不足するため、その解決策として綿と稲とを1年ごとに交代で植えつけ、裏作には麦・菜種などを栽培した。綿花・菜種の生産量は多く、江戸時代から明治初期にかけて指折りの産地として知られた。
  ところが幕末の開港以来、外国産の安価で良質な綿糸・綿花が入ってくると、大和の綿作は衰退に向かい、明治20年代に入るとほとんど姿を消してしまうのである。また石油の利用が広まると菜種油は必要としなくなって菜種の栽培も衰退していった。これにかわって新しい商品作物として梨・桑・すいかなどの栽培が試みられ、水田では稲作の比重が高まって水不足が問題となっていく。こうして大和の農業は近代社会に対応するため新たな努力が必要となったのである。

・老農中村直三

 幕末から明治期に農業技術の改善や品種改良に努め、大和の農業の発展に貢献した人に山辺郡長原村の中村直三がいる。当時このような人たちは全国に現れ、のちに「老農」と呼ばれることになるが、かれはその代表的人物で明治三老農のひとりにあげられている。直三は、安政6年、長原村で年貢引きさげを求める農民運動がおこったのをきっかけに、農作物の増産をめざして農事改良に乗り出した。文久3年から稲の品種改良をはじめてしだいに成果をあげ、明治2年には奈良府や大和の各藩から表彰を受けた。さらに同5年には政府へ「地蔵早稲」という品種を、同9年には勧農寮へ稲の優良品種76種を提出した。同10年、東京で第1回内国勧業博覧会が開かれると300あまりの稲種を出品して注目された。
 このころになると直三の名は全国に広まり、県内はむろんのこと、遠くは秋田県・宮城県・静岡県でも農事改良を指導した。その後も直三は品種改良の努力をつづけ、同14年の第2回内国勧業博覧会には稲742種と綿27種を出品している。明治15年8月13日、直三は急死したが、その成果は県内各地の農家に受けつがれていった。反あたりの米の収穫量はふえつづけ、明治の後半からは全国のトップに立ち、奈良県は農業県としてゆるぎない地位を確立した。こうした当時の生産力の高さを示して「奈良段階」といわれてきた。

・吉野の美林

 長い歴史を持ち、杉の美林で全国に知られている吉野林業の特徴は密植にある。普通は1町歩あたり3,000〜4,000本の苗を植えるが、吉野では1万本以上植えつける。そして植えつけ後、十数年たったころから間伐を繰り返し、100年以上におよぶ長期にわたって育成していくのである。
最初のころの間伐材は、おもに屋根の裏板を支える垂木に、樹齢40年前後の間伐材は、独特の美しい光沢を持った磨丸太にしあげられ、床柱などに利用されている。最後に切る皆伐材は酒樽をつくる材料として京都・大阪の酒造地に送られていった。吉野は京都・大阪の市場に近く、吉野川などの河川で筏流しができたため、江戸時代早くから立木の売買が盛んで、植林も積極的にすすめられてきた。こうした林業技術の改善と普及に取り組み、幕末から明治・大正にかけて吉野林業の名を高めたのが土倉庄三郎である。かれは県内はもとより群馬・滋賀・兵庫の各県で植林をおこない、密植法を広めて日本の林業の指導的役割をはたした。吉野林業の名声はこうした努力に支えられて今に至っている。

・大和絣の盛衰

 江戸時代からの綿花の産地であった大和では、綿織物の生産が盛んであった。宝暦年間(1751〜64)、御所の浅田松堂が松阪木綿の技術を取り入れてはじめた大和絣は、かすり模様のざん新さと天然の藍から取った正紺の美しさが評判となって販路を広げた。明治になって国産の綿作がふるわなくなってからは輸入の綿花や綿糸を用い、織機に改良を加えながら生産は順調に伸びつづけた。
 ところが明治10年代に入ると一部の心ない業者が泥紺と呼ばれる染料を使い、質の悪い製品を売り出したため大和絣の評価はしだいに下がった。そのころ正紺を用いた大和絣でも阿波縮とか河内木綿など別の産地の名をつけなければ売れなかったといわれる。明治16年、大阪府は品質改良のため、木綿商・織屋が団結して仲間規約をつくるよう命じた。これに応じて大和木綿業組合が結成されるのだが、泥紺が追放され大和絣が信用を回復するのは奈良県再設置後まで待たなければならなかった。

・近代紡績業のめばえ

 大和絣の生産が活発であった背景に紡績の盛んであったことをみのがすわけにはいかない。天保4年に出された大倉永常の「綿圃要務」という本の中には「大和国では女だけでなく男も40〜50歳より上の人は家内にいて多く糸をつむぐ」としるされており、農家の副業として手紡ぎが盛んであったことがわかる。奈良県の近代紡績業は、明治16年創業の豊井紡績所にはじまる。政府は「殖産興業」のスローガンのもと、愛知と広島に官営模範工場として紡績所をつくった。つづいてイギリスから新しい紡績機10基を輸入し、おもな綿作地を選んで紡績工場をつくろうと考えた。
 旧小泉藩士で堺県勧業課長の経験もある前川廸徳は、葛下郡長尾村の椿本伊作、平群郡額田部村の篠織太郎らとともに紡績機の払いさげを求め山辺郡豊井村に紡績所をつくった。こうして豊井紡績所は国策に沿った「十基紡績」のひとつとして開業したのである。ところが営業成績はかんばしくなかった。最初は動力に水車を利用することを考え水車を設置したが、まもなく馬力不足であることがわかり、同17〜18年ごろ、蒸気機関の併用に踏みきらねばならなくなった。石炭の入手は容易でなく、大阪から船で淀川・木津川をのぼり、さらに荷車で工場へ持ちこんだという。しかし、営業面での成果があがらないまま同32年には廃業に追いこまれた。

・産業の育成

 さて、奈良県再設置後、県は今村勤三議長の指摘した織物・製茶・繭糸を中心に殖産興業に取りくんだ。大和の織物は泥紺の使用によってきわめて評判が悪かった。そこで、県は物産改良費を予算に組み入れて品質の向上をめざす一方、織物業者の意見を聞き、明治28年、大和木綿組合取締規則を公布して各地に組合やその連合会をつくらせた。組合では製品検査をおこない、違反者には処罰をもってのぞんだため、ようやく悪質な品物も姿を消していった。日清・日露戦争のころには景気も良くなり生産も大幅に伸びた。
 製茶業に対しては明治20年に生産者がつくった茶業組合に補助金を出す一方、国から技術官をまねいて県内の主要産地を巡回させ改良に努めた。繭糸業は発達が遅れていたため、養蚕伝習所をもうけ養蚕技術を広めた。その結果、奈良盆地周辺の山村で養蚕に取りくむ農家がふえ、生産量も伸びた。大正期には全国指折りの養蚕地帯となっている。

・国立銀行の設立

 明治5年11月、金融・財政の近代化をめざす明治政府によって国立銀行条例が布告され、銀行制度が発足した。この条例にしたがい「第一」「第二」という呼び名をつけた国立銀行が生まれた。国立といえば国が資本を出して設立したように思われるが、ここでは国の法律によって設立されたという意味であり、したがって資本はすべて民間からの出資によっている。当初は銀行の数もわずかであったが、同9年8月の国立銀行条例改正によって銀行が設立しやすくなり、各地につぎつぎと国立銀行が生まれた。同11年7月から翌年6月までには109の国立銀行が設立されている。こうした国立銀行設立ブームのなか、郡山に第六十八国立銀行が県内最初の銀行として生まれた。
 明治初年以降、江戸時代からの特権を失った武士のなかには生活に困る者が多く、全国的に問題となっていた。旧郡山藩主柳沢保申は殖産興業に力を入れ、旧藩士の救済をはかった。錦鱗社という機織業の会社をおこしたり、金魚の飼育をすすめたのはその一例である。このような救済策のひとつとして柳沢保申は国立銀行の設立を呼びかけた。これにこたえ旧藩士ら十人が発起人となり、大蔵省へ銀行設立の願書を提出した。最初は大蔵省と資本金の額でおりあわず、いったん却下されたが、再度資本金8万円で申請したところ、明治11年4月2日づけで内認可を受けるとともに、「第六十八国立銀行」の名称もあたえられた。株式の募集には133人が応じたが、このうち126人までは旧郡山藩士であった。9月1日、133人の連名で創立証書と定款が提出され、10月8日に開業免状が交付された。営業は翌12年1月11日から開始された。本店は郡山柳町に置かれ、行員は頭取以下17人であった。はじめは士族の救済をめざして設立された銀行であったが、やがて殖産興業がすすむにつれて県内の商工業の発展になくてはならない存在へ成長していく。

・近代産業と銀行

 県の殖産興業のかけ声の高まるなか、明治26年、郡山町に郡山紡績株式会社が、同29年、高田町に大和紡績株式会社が設立された。両会社ともイギリスの最新式の紡績機を取り入れ、資本金、工場の規模などの点で豊井紡績所とは比較にならないほどの本格的な近代紡績会社であった。しかし、日清戦争後の不況や大企業との競争のなかで営業成績は伸び悩んだ。大和紡績は同35年、郡山紡績は同40年、それぞれ摂津紡績株式会社に買収され、その高田工場、郡山工場となった。
 近代産業発達の背景には銀行の力があったことを見のがせない。第六十八国立銀行以外にも、明治26年、県内最初の私立銀行である松山共立銀行が宇陀郡松山町に設立され、翌27年には奈良・八木・田原本・高田の4銀行が開業して、34年ごろまでにつぎつぎに銀行が生まれていった。第六十八国立銀行は銀行制度の改革によって明治30年に株式会社六十八銀行となっている。これらの銀行が集めた資本は奈良県の商工業発展に役立てられた。たとえば郡山紡績の経営には六十八銀行の、大和紡績の経営には高田銀行のはたした役割が大きい。こうして銀行は奈良県経済のなかでなくてはならない働きをするようになった。

・魚梁船と筏

 産業を発達させるためには交通網を整備しなければならない。とりわけ鉄道の敷設は悲願ともいえるものであった。奈良盆地の水を集めて流れる大和川は、江戸時代から水運が発達し、下流の河内側は剣先船が、亀の瀬から上流の大和側には魚梁船が通っていた。魚梁船は小型で底が浅く、9枚のむしろで帆を立てていた。初瀬川筋は山辺郡嘉幡村、寺川筋は式下郡今里村、曽我川筋は十市郡松本村、佐保川筋は添上郡筒井村までのぼった。そのためあちこちに舟着き場や問屋ができた。もともと、これは江戸時代のはじめ、片桐且元が自領の年貢米を大阪へ運ぶため亀の瀬の難所を開き、平群郡立野村の安村家に物資の輸送にあたらせたことにはじまるといわれる。
 盆地内の川は夏は農業用水にまわされ、冬は渇水のため利用できなかったが、春には肥料や塩などが上流へ、秋には米や木綿などがくだり荷として運ばれた。しかしこの水運も大阪鉄道の開通とともに衰えていった。吉野の林業地帯から建築・土木の用材が筏に組まれて流されるようになったのは、豊臣秀吉のころといわれている。北山郷では、江戸時代、杉・松・檜・栂が筏流しで新宮へ送られた。また吉野川流域では和歌山の問屋まで熟練した筏師の竿さばきでくだったが、やがて鉄道の発達で、上市・五條二見の貯木場どまりとなり、その後、トラック輸送にかわることになった。

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