[引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋]


県庁舎(左側の建物は明治28年にたてられた旧庁舎)

序 章  青山四方にめぐれる国

第1章  夜明けを迎えて

第2章  文明開化のあしおと

第3章  堺県のもとで

第4章  苦闘の再設置運動

第5章  奈良県の誕生

終 章  それから100年


終章 それから100年

・進む近代化

 明治維新から、奈良県再設置までの20年あまりは激動と苦難の時期であった。その後の100年も決して平安な日々ばかりではなかったが、再設置後の奈良県の発展ぶりは、私財をなげうって再設置に力をつくした恒岡直史・今村勤三らの期待に十分こたえるものだった。たとえば明治23年には恒岡らの努力によって奈良〜王寺間に県内最初の鉄道が開通し、さらにその3年後には最初の近代的な紡績会社である郡山紡績株式会社が、同29年には大和紡績株式会社が設立された。こうした近代的な会社には、農家の子女が雇用されたので、農家にも現金収入がもたらされることになり、それまで農業収入だけに頼っていた県民の生活を大きく変えていくきっかけとなった。
 そして、同27年から奈良電灯会社が電気を供給するようになり、また同44年には奈良ガス会社がガスの供給をはじめるなど、生活の近代化はめざましくなったのである。なお、奈良電話所が同36年に設立されている。明治末期には、大阪鉄道など県内の私鉄が国有鉄道に吸収された。その後も、大正3年には奈良〜上本町間に最初の電車が開通し、同7年には日本最初のケーブルカーが生駒山に、また、王寺〜田原本、吉野口〜吉野(六田)間をはじめ、それぞれ私鉄が開通するなど、奈良県内の鉄道網の発達ぶりには目をみはるものがあった。

・文化観光県として

 このように交通網の整備がはかられるなかで、帝国奈良博物館や県物産陳列所などが開館し、また、古社寺保存法による数多くの国宝の指定がおこなわれるとともに平城旧跡保存運動もはじまった。さらに奈良公園をはじめ、吉野公園などが整備され、遠来の人たちの憩いの場となり、大仏や五重塔、鹿に魅せられた観光客や遠足・修学旅行で奈良を訪れる人が多くなってきた。加えて、大正8年、和辻哲郎が刊行した「古寺巡礼」によって閑寂な古都奈良のイメージが印象づけられ、志賀直哉・武者小路実篤ら大和の歴史と風土を愛する文学者たちが奈良を訪れ、ついには住居を求めるなど、文化観光県としての声価も高まった。

・大和すいかと米づくり

 農業面においては明治28年、県農事試験場がつくられ、これまで奈良盆地でつくられていた黒皮の「権次西瓜」にかわって、同42年に同場でアメリカのクリーム種との交配に成功した。さらに昭和初期には、「新大和」という新種をつくり出して市場に旋風を巻きおこし、すいかといえば「大和すいか」がその代名詞の感をいだかせるようになった。栽培の中心は山辺・磯城・北葛城郡であった。
 一方、米作については、同試験場の指導で金肥の多投と優良品種を採用して土地の生産性を高めることに努力した結果、明治後半から昭和のはじめごろまで米の反あたり生産量は全国第1位となり、いわゆる「奈良段階」と称せられるに至った。

・人権意識のめざめ

 こうして産業の近代化がすすめられるなかで、おだやかな風土につつまれてきた県民のあいだに社会問題への関心が高まり、大正7年の米騒動を経て、奈良県の人びともしだいに人権意識にめざめていった。各地に小作人を中心とした農民組合が結成され、小作料の引きさげ運動などが盛んにおこなわれた。当時全国有数の農業県であった奈良県では農民運動が活発になり、同11年に生まれた日本農民組合の活動が盛んな県のひとつとして知られるようになった。同じころ、全国水平社が結成され、部落解放運動も新しい一歩を踏み出した。創立宣言を起草した西光万吉ら奈良県出身の青年たちは、明治のなかごろからおこってきた融和運動を批判し、「自ら解放せんとする者の集団運動」に立ちあがったことを高らかにうたいあげた。その後もこの精神を受けついで、解放運動がつづけられてきたのである。「大正デモクラシー」の名で呼ばれ、民主主義精神のみなぎった感のある大正時代も、その後半は経済恐慌のなかで将来に不安を残したまま幕を閉じた。

・戦争のさなかに

 昭和2年におこった金融恐慌は奈良県をも巻きこみ、県内銀行がいっせいに2日間休業する事態となった。不景気が深まるとともに軍靴のひびきが高まり、やがて日本は泥沼のような長期の戦争に突入していった。その間多くの県民の尊い命が、大陸や太平洋方面で失われていった。
 しかし、奈良県の人びとは、先人たちからひきついださまざまな事業の発展にたゆむことなく取り組んでいった。たとえば、吉野地方の開発では、日本初のロープウエーが吉野山に開通し、吉野熊野国立公園の指定や天辻トンネルの完成などもあった。さらに五條〜新宮間に鉄道を敷設する計画もすすめられ、同14年には工事がはじめられた。また、戦争中には文化財を空襲から守るため、国宝・重要美術品を一時、山村へ疎開させるなど、今も私たちが身近に触れることができる古代・中世の重要な文化遺産が守り伝えられてきたのである。

・吉野川の水が奈良盆地へ

 昭和20年8月15日、長期にわたる戦争が終わり、ようやく平和が戻ってきた。戦いに敗れた日本は、連合国軍の占領下に置かれ、9月になると奈良県にもアメリカ軍が進駐してきた。しかし、県民は敗戦の痛手を乗り越え、郷土のために懸命に働いた。翌21年、復活メーデーが国鉄奈良駅前で実施され、また秋には正倉院特別展が開かれた。同22年から、十津川紀ノ川総合開発事業計画がすすめられ、同25年に奈良・和歌山両県で協定が成立、同27年、正式に国営化が決定し、猿谷ダムの工事がはじまった。そして翌28年、大和平野導水トンネル工事などがすすめられ、同31年7月、吉野川の水がはじめて奈良盆地に流れこんだ。江戸時代以来の悲願がかなったのである。一方、昭和24年1月26日の法隆寺金堂の火災は文化財保護法制定のきっかけとなり、文化財に対する国民の関心が高まった。同30年代にはじまる高度経済成長は奈良県にも大きな影響をおよぼした。阪奈道路、名阪国道が開通、県営上・下水道、治山・治水などの事業もすすめられ、また、奈良県のすばらしい自然環境を求めて移り住む人びとも多くなった。

・100年を経て今

 100年を経た今、県人口は130万人をこえ、やがて140万人に達しようとしている。かつて、奈良県の西設置に奔走した先人たちが、悲しみや苦しみをかかえ、誓願・建白書を握りしめて明日への望みを託し、いくたびとなく越えた生駒・信貴・葛城の山並みは、かれらの夢が今、実現していることを、私たちに静かに語りかけている。
 国のまほろば大和、その青垣は悠久の昔から変わることなくつづき、これからもまた変わることなく私たちと私たちの子孫をいつくしみ、はぐくんでいってくれることだろう。多くの先人たちがつくりあげたこの大地で私たちが受けついできた歴史と文化と自然を、私たちの子や孫に引き渡していかなければならない。

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- 完 -