[引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋]


  飛鳥大原の里から甘橿の丘、畝傍山、二上山

序 章  青山四方にめぐれる国

第1章  夜明けを迎えて

第2章  文明開化のあしおと

     統一奈良県の出発

     差別を断ち切るために

     古いきずなを否定して

     地租改正

     寺子屋から学校へ

     文明開化

第3章  堺県のもとで

第4章  苦闘の再設置運動

第5章  奈良県の誕生

終 章  それから100年


第2章  文明開化のあしおと

統一奈良県の出発

県政のはじまり

 
明治4年11月22日に成立した統一奈良県は石高50万余石、戸数95,800余戸、人口41万8,300余人を数え、元の奈良県庁舎を引きつづいて使用した。初代県令には、もと五條県知事で、当時30歳であった四条隆平が任じられた。
そして、順次官員が発令されて、県庁機構の整備がすすめられた。四条県令のもとに、県令を補佐する参事に三須成懋、権参事に津枝正信が任じられている。翌5年にかけて、庶務課、訴訟と捕亡のことを受け持つ聴訟課、さらに租税課、出納課のしくみが整えられ、地方では五條・郡山や高市郡の土佐などに出張所が置かれて、県の官員は総勢162人を数えることになった。

四条県令の意気ごみ

 
ところで、新進気鋭の四条県令は、庶政一新や殖産・水陸交通の開発整備に意欲的に取り組んだが、なにしろ当時としては珍しい洋食を人にすすめたり、官舎から県庁へ出勤のとき大鹿に馬車を引かせたりするなど、話題の多い県令であった。亀の瀬を開いて大和川沿いに龍田村から河内国国分村へ通じる新道建設に乗り出したり、県内道路の整備をすすめた。また、神仏分離の嵐で衰えた興福寺の土塀などを通行の妨げになる「無用ノ長物」とみなし、教部省に願い出て取りこわしている。土塀のひさしは一間あまりもあって雨雪をしのぐのに好都合であったが、その名物の土塀が取りこわされることを奈良の町民は惜しんだという。
 春日神社の境内に2か所の鹿園をもうけ、また、但馬・丹後牛80頭や乳牛を若草山に放牧したりした。さらに明治6年6月、他府県にさきがけて天皇の御真影(写真)の下賜を政府に願い出て、それが許されると興福寺南大門跡の壇上に遥拝所をもうけて人びとに礼拝させている。奇ばつなアイデアをつぎつぎと実行に移した四条県令が退任したのち、青山貞が奈良県権令に任じられたが、赴任しないまま他の任務に移り、かわって、堺県参事であった藤井千尋が同年11月19日に奈良県権令に任じられた。

藤井権令の施策

 
藤井権令は、四条県令時代の施策を引きつぎ、大区の事務所にあたる会議所の整備、大区・小区の組みかえ、地租改正事業などをすすめた。近代的な学校制度は、明治5年の学制頒布にはじまるが、この学制にもとづいて小学校が町や村につぎつぎとつくられたのも藤井権令の時代である。もっとも、はじめは社寺や民家の一部を借りて教室にあてた小学校が多かった。また、急いで教員を養成するため、同7年1月に小学教員伝授所(まもなく伝習所と改称)寧良書院を旧興福寺境内に、翌8年3月に同じく小学教員伝授所五條書院を代官所跡にもうけたが、これらはまもなくそれぞれ奈良師範学校・五條師範学校と改め、両校あわせて奈良県師範学校と称した。
 県庁のしくみは、これまで庶務・聴訟・租税・出納の4課であったが、同年4月に学務課が加えられた。つづいて12月には第1課庶務・第2課勧業・第3課租税・第4課警保・第5課学務・第6課出納と編成がえがおこなわれている。ところで、明治7年、県のすすめもあって奈良博覧会社が設立された。この会社は、翌8年の春に80日間、東大寺の大仏殿と回廊を会場に博覧会大会を開いた。正倉院の宝物も出品されたのだから、さしずめ正倉院展のはじめともいえる。藤井権令は博覧会について、いろいろな知識を人びとにあたえ、工芸を盛んにするものであるから、人民にとってなくてはならないものであると知らせて、その効果が大きいことを説明し、県内の物産興隆や発明をうながすことに意欲をみせている。

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差別を断ち切るために

・すべての人に戸籍を

 
近代国家となるためには、国民のありさまをできるだけ具体的にそして正確にとらえることが必要である。明治4年4月4日、政府は近代的な戸籍法を公布した。廃藩置県が断行されたのが、同年7月。政府の府県統廃合政策の結果、統一奈良県が発足したのが同年11月22日である。その準備作業は、すでに五條県や郡山県ではじまっていたが、やがて統一奈良県に引きつがれ、翌5年2月1日からおよそ100日のあいだに戸籍簿を作成するということになった。

 戸籍法によって、基本的には従来の町や村をひとつの単位としながらも、いくつかの町村を組みあわせて戸籍簿作成のための「区」をつくり、順番に番号をつけた。そして、区内の戸数や人員を調べる責任者として戸長および副戸長という役人が新しく置かれることになったが、いずれもひとりとは限らず、数人置くことが認められている。しかし、この戸長・副戸長は、これまでそれぞれの村を治めていた庄屋・年寄などの村役人と同一の人物でもよいとさだめられていたために、結果的には庄屋や年寄などがそのまま選ばれることも多く、かれらは今までの仕事にあわせて戸籍作成の事務をおこなうことになったのである。

 県はこの戸籍法を受けて、戸籍編成手順書を配布し、積極的に戸籍簿の作成をすすめた。戸数・人数・出生・死亡・出入りなどの調査があり、これを機会に姓(苗字)をつけた者もいたという。転居による戸籍の移動や旅行には戸長・副戸長の証明が必要となる一方で、本来の居住地を離れて暮らしている者をいわゆる無籍人としてきびしく取り締まった。仕事についている者は現地の戸籍に編入してもらうこともできたが、目的やあてもなく他の区から移り住んでいるとみなされた者は原籍の地に送り返すよう命じている。こうして、同年、四民平等をたてまえとし、国民を地域別に登録した画期的な戸籍が一応完成し、その年の干支にちなんで「壬申戸籍」と呼ばれた。

・賤称廃止令の布告

 
明治4年8月、政府は江戸時代に差別を受けていた人びとの呼び名を廃止して、身分と職業をみんなと同じものにするという布告を出した。すべての日本人が封建時代の身分をこえて一致団結できる近代国家をつくる必要があると考えたためである。賤称廃止令(解放令)と呼ばれるこの布告が出されたことを知ると、これまで差別を受けてきた人びとは大変喜んだ。古い習慣やしくみを利用して、幕府や藩がつくった差別的な身分がなくなるのだから、本来ならここで差別は姿を消すはずだった。しかし、そののち近代社会が発展していっても、民衆のなかにあったさげすみや見くだす気持ち、また仲間はずれにする生活習慣はなくならなかった。

・差別を受ける人びと

 
賤称廃止令の対象になった人びとはたくさんいた。そして、明治時代以後もそうした人びとに対してさまざまな差別がつづいていった。それは、明治新政府が民衆の持つ差別意識をなくすために役立つ対策をとらなかったためである。もしこのとき政府が、単に賤称廃止令を出すだけではなく、当時の社会にあった差別をきっちりと確かめて、それをなくしていくための対策をとっていたら、その後の社会では差別はなくなっていたであろう。しかし、新政府は有効な対策をとるどころか、かえって華族・氏族・平民という新しい「身分」をつくってしまった。その結果、これまで差別を受けていた人びとはすべて平民と呼ばれるようになったが、民衆のあいだにさげすみや見くだす気持ちが残されていたため、これまでの賤称にかわって「新平民」などと呼ばれ、あいかわらず強い差別を受ける人びともいた。それが被差別部落の人びとである。

 ところで、江戸時代の被差別部落の大部分は農村にあり、そのほとんどが他の一般村落と変わりなく農業をおこなっていた。だから当然農業に欠かせない用水利用の権利も持っていたし、生活に必要ないろいろな権利もあった。しかも、江戸時代の被差別部落には草場権という権利もあった。草場権とは一定の地域を決めて、その地域のなかでおこなわれる芝居や、寺院・神社の境内の出店などからそれぞれの収益の一部を得たり、牛や馬が死ぬとそれを無償で手に入れることができる権利をいう。その収益自体はそれほど多くはなかったようだが、そうした権利が生み出すいろいろな仕事もあって、江戸時代の被差別部落はかならずしも貧しくなかったといえる。それは、江戸時代のなかごろから農村では一般に人口が減っていったのに対して、被差別部落では逆に増加したところが多かったことからもうかがえる。

 つまり、江戸時代の大和国の被差別部落の多くは、差別こそ受けていたが、経済的には安定し、また生活上当然の権利も十分に持っていたといえるのである。こうしたなかで被差別部落が明治時代になってこれまで以上の差別を受けるようになったのは、近代社会の経済の発達から取り残され急に貧しくなっていったためである。このことが、被差別部落に対する差別をとくに強く残し、また拡大していった理由のひとつである。

・強まる部落差別

 
賤称廃止令が出される半年前の明治4年3月、被差別部落がこれまで持っていた草場権が新政府によって取りあげられることになった。その結果、江戸時代に草場の権益が生み出してきたさまざまな被差別部落の産業は衰えていった。しかも、軍隊ができると軍需産業が発達することを予測して、士族たちが政府からあたえられた資金を元手に皮革産業の部門に進出してくるようになると、被差別部落の伝統的な産業は大きな打撃を受け、その経済力はいっきょに低下することになってしまったのである。

 さらに、明治20年代になって製糸業や紡績業などの近代産業が急速に発達していくと、田畑を持たない貧しい農民は、そこで働いてなんとか生活することができた。しかし、被差別部落の人びとは、差別のためにそうした近代産業からも締め出されるようになった。この結果、被差別部落は全体として急速に貧しくなっていった。そして、こうした被差別部落の極端な貧しさを目のあたりにした民衆は、これまでより一層さげすみや見くだす気持ち、また仲間はずれにする生活習慣を強めていくのであった。明治時代のなかごろから被差別部落におこってきたこのような事態に対して、奈良県では「矯風会」を中心とする部落改善事業を開始し、また、明治政府は農村の貧困を防ぎ、思想善導をすすめるため「地方改良事業」に着手した。

・差別と闘う人びと

これを受けて明治時代の後半になると、被差別部落の内部から自分たちの生活を改善していこうと考える人びとが現れはじめた。部落改善運動と呼ばれたものである。その運動は、差別を受けるのは部落の側の劣悪な環境・生活状態などにそれだけの理由があるからだとして、ときには政府と協力しながら被差別部落の生活改善をすすめた。これに対し、松井庄五郎らを中心として結成された大和同志会は、部落差別の原因を社会一般の側にも求め、部落の改善に加えて社会との融和の実現をめざした運動に乗り出した。その後、社会運動が高まるなかで、被差別部落の人びとは団結して部落の外に向かって差別の不当性を訴えるようになっていった。大正11年3月3日、奈良県出身の西光万吉らが中心となった真に自立的な最初の部落解放運動団体である全国水平社が結成されるのである。

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古いきずなを否定して

試行錯誤のはじまり

政府は戸籍づくりをすすめながら、中央集権国家の建設に欠くことのできない地方統治の具体的な方策を探りはじめた。しかし、長いあいだつづいてきた町や村のしくみを根本的に変えることは、なみたいていのことではなかった。だから、役人が机の上で一生懸命練ったプランであっても、人びとの生活に根ざしたものとなり、また中央政府の意志がスムースに地方へ伝えられるようなしくみが完成するまでには、さまざまな試みと時間を必要とした。そのため、その努力は地方行政のしくみがほぼ確立する明治33年ごろまでつづくことになる。

・大区・小区制

 さて、江戸時代にそれぞれの村を治めてきたのは庄屋あるいは年寄である。多くはその庄屋・年寄がそのまま任命されたとはいえ、戸籍法にもとづいて町や村には別に新しく戸長及び副戸長が置かれた。庄屋・年寄は一般行政を担当する役人で、戸長・副戸長は戸籍づくりの責任者である。それは、江戸時代以来つづいてきたしくみを整理するための最初の試みであったが、地方によっては混乱も生じたに違いない。そこで、従来の村役人と戸長・副戸長の関係をすっきりさせる必要から、政府は明治5年4月、ついに庄屋・年寄などの呼び名の廃止に踏みきり、翌5月あらためて、それぞれを戸長・副戸長とするように命じた。政府はさらに行政区画についてのプランを示した。つまり、戸籍簿をつくるためにもうけていた「区」を発展させて、新たな地方統治の試みとして大区・小区の制度を創設するというのである。そのねらいは江戸時代の町や村を否定し、府・県ー大区ー小区という形で政府の命令を地方に伝えようとするものであった。この大区・小区制が奈良県に導入されたのは、同年5月16日のことである。

・15大区199小区

 奈良県の場合、今までの群の領域をそれぞれひとつの大区とし、各大区のなかにこれまでの町村をいくつか組みあわせた小区を置き、行政の最小単位とした。地域の実情や村の規模により組みあわせの数は一定しなかったが、石高1,000石で一小区とする基準が適用されたといわれている。大和は一五郡からなっていた。したがって、添上郡(第一大区)・添下郡(第二大区)・平群郡(第三大区)・山辺郡(第四大区)・式上郡(第五大区)・式下郡(第六大区・広瀬郡(第七大区)・十市郡(第八大区)・葛上郡(第九大区)・葛下郡(第十大区)・高市郡(第十一大区)・忍海郡(第十二大区)・宇陀郡(第十三大区)・宇智郡(第十四大区)・吉野郡(第十五大区)の15の大区が生まれたわけである。なお、宇智郡と吉野郡は、明治4年11月に統一奈良県が誕生するまで五條県に属していたのだが、五條県では戸籍簿編成のさいに郡の領域を大区(計6大区であった)とし、そのなかにやはり町村を組みあわせた小区を置いていたことが知られる。もちろん、これは戸籍簿の作成と管理を目的とするものであった。その後、一部編成がえもあったらしいが、この15大区が成立したとき、両郡はそれぞれ第一四・一五大区となっている。各大区に置かれた小区の数をあわせると全部で199となる。
 行政上の住居表示は、すべて番号をつけておこなわれるようになった。現代風にいえば郵便番号制度の導入とでもいったらよいのだろうか。しかし、この行政区画にはたびたび変更が加えられていったので、住民のあいだに定着するのはむずかしかった。自分たちの村が第何大区第何小区に属していようと、生活をするうえでたいした影響はなかったからである。
 各小区では、町村ごとに戸長や副戸長を選び、戸籍にかかわる事務だけでなく、庄屋・年寄の仕事を受けついだ。もっとも、戸長・副戸長というのはそれぞれの村で最も豊かな農民や商人など、結局は庄屋・年寄層から選ばれることが多かった。政府は、かれらの存在をおおいに利用しながら地方行政制度の整備をすすめていくのである。

・さまざまな戸長

 大区・小区制が導入されると、国および県からの布告や布達類は、奈良県最初の新聞「日新記聞」とともに布告箱に入れて町や村に届けられることになった。当然、国や県の指示が地方のすみずみまで行きわたるには、かなりの時間がかかった。戸長や副戸長は、良くない風習をあらため、風俗を正しくするリーダーで、ただ単に布告箱をまわしたり、住民の請願や伺書あるいは届け書に印鑑を押すだけの仕事ではない、だから軽々しく職をやめることがあってはならない、と県の布達にある。しかし、ところによっては布告の伝達もスムースにいかないことがあったらしく、「日新記聞」には戸長を批判する投書がいくつか掲載されている。なかには断髪令の実施をめぐって、戸長の指導により村ぐるみで断髪に踏みきった村や、逆に無断で断髪をしたのはけしからんと、新しい生活に理解を示さず権威をふりかざす戸長などさまざまであった。明治5年10月には、まとめ役として大区には区長、小区には副区長を置くことを政府が認め、奈良県では翌11月実施、ここに大区・小区の基礎はできた。なお、区長はふだん県庁で勤務についた。

・行政の末端をになって

 やがて、大区には大区長・副大区長を置き、小区ごとに小区長・副小区長を置いて戸長や副戸長を監督させることにした。その後も指示・命令系統を整えるために、繰り返し改正がおこなわれていった。ところで、おそらく地方の村むらを代表する名誉職でもあったと考えられるこれらの役職は、明治7年3月の太政官布告により官吏、すなわち役人に準じるあつかいとなり、いよいよ行政の末端をになうようになった。すでに、5日以上村を離れて旅行などする場合には県への届け出が必要となっていたことからもわかるように、戸長や副戸長も村の代表であると同時に役人としての性格が強くなっていったのである。同年8月には、大区長以下の役職名がまたもや改正された。大区長・副大区長はそれぞれ大の字をとって区長・副区長に、小区長は戸長となった。そして、従来の戸長および副戸長はすべて副戸長に統一した。今まで町村のまとめ役であった戸長は、小区の代表者を示す役職名となったのである。まことにめまぐるしい変化であった。翌8年には、各小区ごとに戸長役場がもうけられている。

・早くも組みかえが

 明治5年11月、県は会議所をつくることを計画し、これをすすめた。会議所というのは、区長や戸長などが集まって事務処理をしたり、協議をする機関のことである。告諭によると、従来の郡の領域(つまり大区)のわくを越えて県内を12に分け、それぞれに会議所をひとつずつもうけることになっている。早くも大区の組みかえというわけだ。最初の会議所は、同年11月25日に奈良の大豆山町崇徳寺内で開庁し、第1会議所といった。第1会議所は、添上郡の平野部と添下郡の全域、それに山辺郡の一部をあわせて32小区を管内に置いた。これにつづいて、翌6年になると、順次各地に会議所が開設されていった。各会議所では、学校の創立や病院の施設に関すること、道路の改修・水運など交通に関すること、あるいは窮民の救済など多方面にわたって協議がおこなわれた。徴兵令が公布されたのが同年1月で、徴兵名簿は小区ごとに作成し会議所に提出することになっている。この徴兵については、住民の側に誤解やとまどいなどから根強い抵抗があったので、名簿の作成には苦労したようだ。
 第1会議所は同年2月、目安箱というものを置いたが、たとえば道路をどのようにつけたらよいかなどといったことについて、地元民の意見をとりあげようという姿勢がうかがわれて興味深い。もっとも、まだまだ自治というにはほど遠く、会議所での協議も事務的な打ちあわせに近いものであった。協議事項を実行に移すにはすべて県の許可が必要であったし、会議所管内の監督と称して県からは役人が派遣されていたからである。

・長い道のり

 一方、各会議所管内の小区割りも再編成がすすめられていった。最も早く改正に着手した三輪の第4会議所では、明治6年9月、これまでの34小区を19小区に編成しなおした。たとえば第1小区には、三輪・金屋・馬場・松ノ本・粟殿・川合・上之庄・戒重の各村むらが含まれている。この小区割りについては、翌7年10月の会議所条例の改正により、戸数およそ1,000戸で1小区をつくるという基本線が打ち出され、さらに大区については合計12大区から10大区とすることになった。これに沿って、まず第7・8両大区の一部を組みあわせて別に第9大区をつくり、会議所を下市村に置くとともに、第12大区は第10大区とその名称を変えたのである。会議所はそのまま川津に置かれた。
 こうして、いくたびかの改編を通じて大区・小区制は整備されていった。同年11月には、町村のすみずみにまで政策がいきわたることをねらいとして拾人組というものを置き、頭役を決めて会議所に届け出るよう県は命じている。このしくみを什長制というが、同9年12月までつづけられている。江戸時代の五人組の制度にならったものだろうか。
考えてみれば、大区・小区制というのは古い町や村を否定することによってつくりあげられたもので、小区をその最小単位とする地方行政区画の試みであった。しかし、江戸時代以来の水利・冠婚葬祭・共有財産などの、町や村を単位とする生活習慣を変えるものでなかったため、なかなか定着しなかった。したがって試行錯誤は繰り返されていく。

・古いきずなの復活

 堺県の管轄のもとに入ってまもなく、区長以下の役職についてまた改正があった。町村を代表するのはこれまで副戸長だったが、新たに副戸長は小区全体のなかから選ばれるようになったので、町村にはあらためて総代を置くことになった。この総代というのは、従来の副戸長と同様に住民の投票で選ばれ、村のさまざまな相談ごとや交渉にあたったのである。

 ところで、政府は明治5年、学制を頒布し、地方行政区画とは別に大学区−中学区−小学区を区画し、各小学区ごとに分けて小学校を設置する施策をすすめた。奈良県内は3つの中学区に分けられ、そのなかに合計685の小学区を置き、番号をつけて呼んだ。これは大区あるいは小区の番号とはまったく別につけられたものだから、大変ややこしかった。このように行政区画とは別に学区がさだめられたとはいえ、とりわけ小学校が地域の住民や行政組織と密接な関係を持つのは当然であった。学制にもとづいて各中学区ごとに10人あまりの学区取締が任命され、それぞれが分担する小学区内の学校事務を取りしきったが、やがて、小学区ごとに学校世話掛が置かれた。

 同7年になると、各町村の副戸長(のち総代)にもその仕事を兼務させ、交代で学校に出勤することを命じている。学校というのは地域が育てるものであり、住民の声が十分に反映されなければならない。したがって堺県時代には、各小区で毎月1回小学校教員をまじえた教育会議を開くことになっており、戸長をはじめ学校世話掛や町村の総代も出席していたようだ。地方行政のなかで教育行政のしめる比重はだんだん大きくなっていくが、住民の意見は従来の町や村を単位としてまとまる。古いきずなを断ち切るのは容易なことではなかった。

・町や村を守るために

 一方、区長や戸長は警察の仕事も兼務した。明治9年6月、堺県は区長・戸長に対して、それぞれ警部および巡査の心得を持つようにとの布達を出している。それによれば、担当区域の巡視とともに、今では考えられないことであるが、放火や殺人・強盗、とばく、脱走した兵士などについて、捜査・逮捕の権限をあたえた。ただ、逮捕した犯人は24時間以内にもよりの警察出張所(このころ、大区ごとに1カ所ずつ設置されていた)に護送しなければならなかった。ところで、警察出張所は翌10年に警察署と名称を変更し、各小区にその分署を置くようになってほぼ警察制度が確立するのだが、警部や巡査の数はきわめて少なかった。そのため堺県は、犯罪を防ぐ方法として、各町村に自身番を置くことを命じた。明治天皇の大和行幸にともなう警備の必要もあったし、また西南戦争の勃発による世情の不安がその背景にあったのだろう。

・5大区24小区へ

 さて、財力の弱い町村の合併がすすめられるなかで−−たとえば明治9年11月、第2大区第8小区の添上郡北野村西方(戸数38戸)・同村奥方(戸数49戸)・山辺郡杉原村(戸数16戸)の合併が認められ、あらためて北野村となっている。−−堺県は同年10月24日、区割りの大規模な改編を発表し、検討を重ねた結果、12月になって大和については最終的に5大区24小区にまとめることを決めた。このように1小区の規模は、大区・小区制が導入されたころに比べて格段に大きくなったのである。各小区にはそれぞれ事務所が置かれた。
 第1大区第1小区の事務所は奈良東寺林町にあり、翌年におこなわれる天皇の行幸にさいしては、その窓口として活躍している。宇陀郡宇賀志村は、同9年現在戸数115戸の村で、大区・小区制発足の当初は第13大区第5小区に属していたが、第6会議所が宇陀郡の松山町に設置されると、その管内の第6大区第3小区となり、さらにこの改編で第3大区第4小区に組みこまれることになった。この第4小区の事務所も同じく松山町に置かれた。それにしても住居表示を番号で呼ぶしくみは、おそらくなじみにくいものだったろう。こうして、大区・小区制の大きな改編は一応終わった。しかし、それもつかの間で、しばらくすると地方制度の再編成が本格的にはじまるのである。

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地租改正

・土地制度の改革と地券の発行

 廃藩置県や官制改革で中央集権の政治のしくみを整えた明治政府は、近代国家にふさわしい財政の確立を急いだ。新しい事業に取りかかるには資金がいる。ところが維新後数年間の租税は、江戸時代のしくみを受けついだもので、米で納めるのを原則としていたうえに、地域によって税の率が異なった。しかも、米などの現物年貢では、輸送・保管・売却に手間がかかるうえに、米の作柄や米価の変動によって政府の収入が変わってくるなど不都合な点が多かった。
 そこで政府は、安定した財源を確保し、計画的な財政を打ち立てるために、租税の徴収方法をあらためようとした。これまでの現物年貢をやめて、現金で納めさせるには、農民が換金に有利な農作物を自由につくって売ることができなくてはならない。そのため、明治4年9月には江戸時代に禁止されていた農作物の自由な栽培を認め、翌5年2月には、土地売買を自由にした。ついで同年7月には、土地の持ち主に地券を交付することを決めている。地券は、村ごとに田畑宅地などの持ち主が面積や地価を申告したのちに交付されるが、地価取り調べが困難なこともあって、その交付はかなり遅れた。

・年貢から税金へ

 こうした準備を終えて、政府は明治6年7月、地租改正の法令を公布した。これによって、課税の基準が収穫高から地価に変更され、税率は地価の100分の3として豊作不作に関係なく一定とし、土地所有者が一律に現金で納めることがさだめられた。奈良県でも、まもなく同年11月には「地租改正条例7章告諭書」を出して、このたびの改正は租税の苦情が出ないように公平にあらためるのであるから、実地に正確に取り調べるようにと念を入れた。

 地租改正の事業は、土地の面積と収穫量の調査からはじまったが、それをもとに地価を算出したから多くの労力と費用・日数を費やした。つづいて、同9年2月に山林原野の改正調査をおこなうよう指示した。用材林・柴山・草山・竹薮・稲干場など、収益があるとみなされるところはすべて取り調べの対象とされた。なお、この機会に町や村のあいだで入り組んだ飛び地の組みかえもおこなわれている。また、やがて堺県の時代にいると、田畑宅地のそれぞれについて、町や村ごとに大和国全域の等級が決められ、地価算出の基礎となった。こうして土地調査が済み、地価と地租が確定されると、土地所有者にはこれまでの地券にかえて新地券が交付された。
 このような経過で、近代的な租税制度の基礎が築かれたものの、課税対象の田畑宅地などがきびしく調べられたことや、政府が国の歳入を減らさない方針で、地価を高く見積もったので、地価のわずか3パーセントの地租といっても、農民は江戸時代と変わらない重い負担を強いられることになった。このとき政府が示した基準では、田地1反歩に1石6斗の米がとれ、その代金4円80銭の地価を40円80銭として計算、地租はその3パーセントなので1円22銭4厘となるが、それは収穫高の26パーセントに近い高率となった。

・変わりゆく農村

 ところで、米価の変動や豊作不作にかかわりなく、毎年一定の地租を現金で納めることは大変苦しいことであった。また米価が値上がりして地主や一部の自作農は利益を得ても、多くの農民は農具や肥料などの支出に追われ、生活は楽にならなかった。そのため、全国各地で軽減要求がおこり、明治10年からは、地租は地価の2.5パーセントに引きさげられることになった。
 さて、不換紙幣の乱発によって同10年代に入るとインフレーションがすすみ物価が上がった。それを抑えるため、同14年から松方正義大蔵卿によって財政整理・歳出削減などのデフレ政策がすすめられ、今度は逆に急激に物価が下がった。農産物価格は暴落し、そのうえ大和では同16年以後干ばつや風水害がたびたびおこり、深刻な不況にみまわれた。そのため、地租をはじめとした出費の増加に苦しみ、多くの農民が土地を手放し小作農に転落した。農民の手放した土地は、おのずから余力のある地主や自作農などのもとに集められていき、寄生地主と呼ばれる新しい地主が生み出されていったのである。

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寺子屋から学校へ

・大和の教育

 大和国には、江戸時代の終わりごろたくさんの学校がつくられていた。ほとんどの藩には藩校があったし、吉野の十津川郷では郷民のための学校として文武館を持っていた。また、八木の谷三山や五條の森田節斎ら幕末の有名な儒学者がつくった私塾もあった。寺子屋と呼ばれた庶民の学校もたくさんつくられた。吉野のある寺子屋では、子どもひとりから1か月に白米1升の授業料を取って読み書き・算術を教えていた。そこでは、毎年7月と12月に定期的な試験をおこない、毎月25日には清書した手習いを集め、できばえの良くない子どもには書きなおしをさせた。
 また、吉野の別の寺子屋でも、子どもたちは午前8時までに寺子屋に入り、午前中は習字・算術・読み書きを学び、午後には算術・読み書きの復習をすることが日課としてさだめられていた。そして4日ごとに習字を提出させ、甲・乙・丙の評価をつけて、丙の生徒には次回までに復習させるなど、今の学校とあまり変わらない計画的な教育がおこなわれていた。このように、大和の人びとの教育に寄せる関心と期待はきわめて高かったのである。

・小学校をつくろう

 明治5年8月3日、「かならず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんこと」を目標に、近代国家で最初のまとまった教育制度として、学制が制定された。全国を8つの大学区に分け、ひとつの大学区には32の中学区を、1中学区には210の小学区を置くという学区の組織もつくられた。奈良県は近畿地方や中国・四国地方の一部とともに第4大学区をつくり、そのうちの第13〜15中学区に入った。そして、県内の3つの中学区には685の小学区が置かれることになった。奈良県ではこの年の6月に、これからの人間は歌や詩だけではなく、世のなかの進歩に役立つ学問を学ぶことが大切だとして、私設の小学校をつくることや、子どもを学校に通わせることを奨励しているが、学制の制定とあわせて大和の近代学校教育はここからはじまった。
 学制の制定をきっかけとして小学校がどんどんふえていった。寺子屋の建物をそのまま使ったものや、新しく建てたものなどいろいろだったが、はじめのころわずか50校あまりだったのが、同8年には375校、同10年には470校にもふえている。このころの小学校の費用は地元が負担することになっていたため、ひとつの村で小学校を持つことは大変なことであったが、教育の大切さをよく知っていた大和の人びとは協力して町や村に小学校をつくろうと努力した。

・教育にかける期待

 明治7年にはなら県全体で5万人あまりの学齢児童がいたが、そのうちの2万7,000人ほどが入学したので、就学率は54パーセントにもなり、全国平均の32パーセントをはるかに上まわっていた。これをもう少し細かくみれば、今の大和郡山市南部と安堵町の7つの小学校では、同9年にあわせて718人の学齢児童がいたが、そのうち398人が就学し、就学率は55パーセントだった。ただ、男子は366人中273人が就学し、就学率は75パーセントであるのに対して、女子では352人中125人が就学、就学率は36パーセントであった。卒業まで通ったかどうかわからないので、就学率の高さだけでいうことはむずかしいが、大和の人びとの子どもたちにかける期待の大きさがひしひしと伝わってくる。

・急がれる教員養成

 小学校の教師については、養成機関がつくられていなかった明治5〜6年ごろまでは、とりあえずもとの寺子屋の師匠などを採用していた。しかし、これでは寺子屋時代から少しも進歩していないことになる。そこで同7年1月に正式な小学校教員を養成するため、もとの興福寺の境内に寧楽書院という養成所をつくった。よく8年3月には五條にもつくられ、同年6月に両校は奈良県師範学校と名前が変わり、ようやく本格的な小学校教員の養成がはじまったのである。
 明治9年に堺県に合併されると、奈良・郡山と式上郡の芝村、十津川の平谷の4か所には堺にあった師範学校の分校が置かれることになった。しかし、同14年に堺県が大阪府に合併されると、その直後に大阪府は財政困難を理由に郡山・芝村の2分校を廃止した。これに対して文部省は大阪府に、大切な教員養成のための師範学校を安易に廃止しないようにと注意をしている。なお、翌15年には平谷分校が吉野に移されて吉野師範学校となったので、大和国には奈良と吉野の2か所に師範学校があったことになる。

 しかし、同19年、1府県に師範学校は1校ということになったので、奈良と吉野の2つの師範学校も大阪の師範学校に合併されてしまった。それからは、同20年に奈良県がふたたび設置されるまで大和国には師範学校はなく、教員になろうとする大和の青年は、大阪まで出向かなければならなくなった。このように教育の面でも独立した県を持てない大和の悲哀が見られた。大和の人びとが自分たちの師範学校を持つのは、奈良県の再設置を待たなければならなかったのである。

・中学校の設立を求めて

 小学校の建設が軌道に乗ると、つぎに大和の人びとは中学校の設立を願うようになった。明治9年4月に堺県に合併され、奈良・郡山・芝村・平谷に堺師範学校の分校が置かれると、大和の人びとは中等科の併設を望み喜んで献金をしている。このとき集められた基金を大和中学資金という。しかし、堺県が経費削減という名目で小学校の統廃合政策を強引にすすめたとき、独立した中学校の設立を強く望んだ大和の人びとは、さきに集められた中学資金の使途を追求してその政策になかなか応じようとはしなかった。
 こうした大和の人びとの感情を配慮したのか、堺県を合併した大阪府は中学資金を利用して堺師範学校の郡山分校を中学校に切りかえ、同16年6月には芝村にも新しく中学校をつくった。なお、郡山・芝村両中学校は大和国出身者に限って授業料を取らなかった。さきの中学資金を学校経費にあてたためである。その後、芝村中学校は同19年1月に郡山中学校に合併され、やがて中学校令の実施によって郡山尋常中学校と改称された。そして、郡山尋常中学校は同年につくられた吉野尋常中学校を同26年に合併して奈良県尋常中学校と改称し、同34年には、奈良県立郡山中学校とあらためた。これが今の県立郡山高等学校の前身であり、大和の人びとの長年にわたる願いがようやく実ったのである。

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文明開化

・チョンマゲからザンギリ頭に

 日本を欧米諸国に引けをとらない強くて豊かな国にする―この目標に向かって政府は社会制度の整備と殖産興業をすすめ、封建的な考え方を一掃しょうと努力した。
♪ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする
♪チョンマゲ頭をたたいてみれば因循姑息の音がする
と歌われたように、明治初期は新旧さまざまな意識や価値観がぶつかりあう時代となったのである。
ところで、この時期、大和ではどのように文明開化がすすんだのであろうか。
 明治4年11月22日に就任した県令四条隆平は県政の近代化に力をつくし、県民への啓蒙活動を積極的におこなった。長年の県民の慣習や娯楽の多くを「旧来の陋習(悪いならわし)」とし、その改善を求める布告・布達をあいついで出した。同5年には「肩ぬぎはだか」を禁止するという布達が見られる。肩ぬぎはだかになることは「身体を外部にあたらしめ養生の道においてもよろしからず」と理由を述べ、「人として恥べき」こととして禁止したのである。
また同じ年の10月には、チョンマゲをやめて髪を伸ばし、帽子をかぶるという「措髪戴帽」の奨励がおこなわれている。頭部は精神をつかさどる最も重要なところであるから、冷たい風とはげしい照りつけにさらすと百種の病気を生じるとして、その意義をといた。この時期の県の布達類からは、一見科学的な説明をつけて風俗習慣の改善を県民に納得させようとしているようすがうかがわれる。この他に、闘犬・闘鶏の禁止、祈とう・占いなどの禁止、演戯・軍談・講釈その他の興行は夜12時までに制限すること、盆踊りは深夜早朝におよんではならないことなど、県民の生活の細部にわたって多種多様な指示を出した。

・「日新記聞」の発刊

 こうした一連の啓蒙政策の宣伝には新聞が力を発揮した。奈良県では明治5年5月、「日新記聞」が発刊され、これが県内最初の新聞とされている。新聞といっても雑誌程度の大きさの木版刷りのもので月3回発行、各号とも16〜20ページだてになっていた。今日の感覚でいえばパンフレットのような形をしたものである。発行者は奈良油留木町の金沢昇平と東向北町の高橋平蔵で、同年、油留木町に日新報社を設立し、5月に第1号を発刊した。確認できるのは、第1号から翌6年11月発刊の第36号までで、今のところそれ以後の号は認められない。金沢らは当時の県民は見聞が狭く、因習を固く守るばかりだと主張した。それをあらためるためには「県庁の布告、東京・京都・大阪のこと、横浜・神戸等の新聞、外国の異聞、街の小さな事件に至るまで」のさまざまな事柄を報道することが大切であると考えたのである。
 紙面を見ると、政府や県からの布告・布達類が数多く掲載されている。当時「日新記聞」は2,000部が県に納められて各町村に配布されていたというから、県の広報のような役割をはたしていたといってもよいだろう。さらに県は戸長・副戸長に自費で「日新記聞」を購入するように求めた布達を出している。山辺郡長柄村では「洽聞社」という名で「新聞展読所」をさだめていたという記事もあり、新聞閲覧所の存在も確かめられる。県の施策が県民のあいだに広まっていくありさまを伝える貴重な記事といえるだろう。

・生活の近代化

 「日新記聞」のなかから文明開化のようすを伝える記事を見ると、まず第1号には、県庁には椅子・机が置かれ、「官吏は皆、散髪脱刀洋服にて靴のまま昇り降り」していると、庁内のようすが紹介されている。また第4号では奈良の高札場の両側に「硝子燈」を2本、県庁東門に同じく1本が建てられることが伝えられている。人力車は明治5年ごろから走りはじめたようである。第1号には奈良の市中に数十輌の人力車があり、「女児幼童猿沢池を一周するを娯楽とす」という記事が見える。県が同年6月に人力車の営業について、その「心得」を布告しているのはこうした事態の反映といえるだろう。ここには、人力車の賃銭は一里につき6銭2厘とすること、並んで走ることは厳禁し、行き違うときは左へ避けること、暮れ六つ時(午後6時)からあとは「人力車」としるした提灯をさげること、などとさだめられた。
 牛乳の引用され始めた様子も伺うことができる。第3号には奈良若草山に牧場がつくられ、牛・羊が放牧されていたという記事が見え、第14号には牛乳は健康に良いとその効用を宣伝している。このようにして県民のあいだに新しい生活習慣が広まっていったが、こうした変化がなんの抵抗もなくすすんだわけではない。第26号の、ある戸長が散髪した村びとをしかったことを取りあげてその保守的態度を批判した投書や、第33号の、農作業中の裸体姿を注意されて県の官吏に暴行を働いた男が処罰された記事にそのようすをうかがうことができる。また第1号には同5年1月に、元郡山県士族が不穏な動きを示し、四条県令らがそれをしずめたことが伝えられている。士族の不平がわきおこっていた全国の情勢と奈良県もまた無縁ではなかった。

・警察のしくみ

 警察機構の整備も日を追ってすすんだ。廃藩置県までの警察機構は江戸時代と同じようにまちまちで統一したものがなかった。明治4年、政府は全国に現在の警察官にあたる府県捕亡吏を置くこととし、県でも翌5年1月8日に捕亡長以下35人の捕亡吏を任命した。1月10日からは奈良の市中に4か所の捕亡屯所をもうけて捕亡吏に巡回させている。この捕亡屯所が警察官派出所の最初とされる。捕亡屯所はまもなく廃止され、同6年2月、奈良角振町に設置された第1大屯所をはじめとして、この年に6か所の大屯所と15か所の小屯所を置き、ここに邏卒を配置した。奈良以外の大屯所は、龍田・三輪・御所・上市・五條に置かれた。同8年末、県庁の機構改革によって警察業務ははじめて独立した。邏卒は巡査となり、各屯所は警察出張所と改称されたのち、同10年2月、警察署とあらためられていった。こうして今日の警察機構の原型が形づくられたのである。

・古社寺の宝物調査

 殖産興業政策の一環として明治初期から各地で盛んに博覧会が開かれた。殖産興業をすすめることは奈良県にとっても重要な課題であったが、この時期にはまだ商工業もあまり発達しておらず、そういった博覧会の実現は容易なことではなかった。ようやく奈良博覧会が開催されたのは明治8年のことである。このころ文部省にいた蜷川式胤と町田久成から博覧会を開くよう県に働きかけがあった。2人は明治4年5月に布告された最初の文化財保護のための法律である古器旧物保存方にもとづいて、翌5年8月、東大寺正倉院はじめ県内の古社寺の宝物調査のため来県していた。博覧会に多くの社寺の宝物が出展されることによって、隠れた文化財を発見し、調査できるという思惑が2人にはあったようである。
 権令藤井千尋はこの提案を受け入れ、奈良町の有力者を集めて奈良博覧会社をつくらせた。同7年8月のことである。資本金は3,500円、本社は東大寺龍松院に置かれた。県は会社創立にあたって、経営がうまくいかず赤字が出た場合、その額が「何程ニ達スルトモ補助金下シワタスベシ」と約束したというから、県が博覧会にかけていた熱意のほどがうかがわれる。

・奈良博覧会の開催

 第1次博覧会大会は明治8年春、80日間にわたって開かれた。会場は東大寺大仏殿で、東西の両回廊に社寺や旧家の書画・道具類、県内の名産品が陳列された。また大仏殿内には宮内省の許可を得て正倉院宝物を展示した。第1次大会は17万人をこえる観客を集め、盛況のうちに終えることができた。同10年には「会場規則」をつくり運営の細則を決めている。それによると博覧会大会は年1回春に開くこととし、終了後には大仏殿内を会場として常設の博覧会小会をもうけるとしている。大会は午前8時に開場し、午後4時に閉場、入場料は3銭、小会は午前9時から午後3時までで入場料は1銭とさだめられていた。大会は同26年までに17回を数えたが、第1次を最多として観客数はしだいに減少し、博覧会社の経営も苦しくなっていった。出品物が社寺の宝物類が中心となってしだいに新鮮味を失い、正倉院宝物の出展が第6次までで終わったことなどがその原因として考えられる。
 奈良博覧会は、当初期待されていた殖産興業の面から見ると、出品物が古美術・古道具類にかたよったため、かならずしも成功したとはいえない。しかし、大和の伝統工芸には多くの影響をあたえた。出展された正倉院宝物は伝統工芸の作家たちに新鮮な感動をあたえ、刺激を受けたかれらは博覧会にさまざまな作品を発表していった。博覧会社はこれらの作品のうち優秀なものには賞をあたえた。大和の伝統工芸の近代以降の歩みをみてみると博覧会のはたした役割を軽視することができない。

・通信制度の発足

 郵便制度は、明治4年1月24日に出された「郵便創業の布告」にはじまる。郵便のとりあつかいは、はじめは東京・大阪・京都の3都市と東海道のもとの宿場に限られたが、翌年7月には北海道の一部をのぞく全国ではじまった。奈良県では、明治4年12月25日に郡山・奈良など20か所に郵便取扱所(同7年1月に郵便役所に、翌8年に郵便局に改称)がもうけられ、しだいに各地に広げられた。奈良県の郵便制度を整えていく中心となったのは木本源次郎である。木本は東京の駅逓局の講習で郵便制度について学び、郵便取扱所の設置などの制度の整備に力をつくした。ちなみに奈良局では同8年1月から郵便為替を、同10年5月からは郵便貯金を取りあつかっている。
 今の電報にあたる電信は、明治2年12月25日、東京〜横浜間ではじまった。当初電信を「天理可楽怖(テレガラフ」と書いて、魔法のように考えたり、娘の生き血を電線に塗っているなどのデマが流れて、電線を切ったり電柱を倒したりする妨害もあったが、しだいに電信事業は発達した。同16年12月12日に奈良電信分局が開設され、同月15日、奈良〜京都伏見間に電信回線が新設されて県内の電信事務がはじまった。翌17年、奈良局では発信2,821通、着信3,205通を取りあつかっているが、10年後の同27年になると県内に7か所の電信局がもうけられ、発信2万767通、着信2万9,712通を数えるまでに発展している。
 電話はアメリカ人グラハム・ベルが明治9年に発明したものだが、早くも翌年日本に渡ってきている。さっそく実用化に取り組まれたが、当初は2点間の直接通話であったため使用は府県庁・警察署・鉄道駅舎・大会社などに限られていた。県内では同17年、御所高田警察署から国分警察署間に開通したのが最初である。

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