[引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋]
いかるがの里(法隆寺五重塔)
第4章 苦闘の再設置運動
第4章 苦闘の再設置運動
・堺県から大阪府へ
奈良県が廃止されて堺県に編入されたのは明治9年4月18日のことだが、それから5年たらずで今度はその堺県が大和国を含んだまま大阪府に合併された。同14年2月7日のことである。府知事は建野郷三であった。大阪府の管轄地が最も大きくなったのはこのときである。同14年1月31日の元老院会議に「福井県ヲ置キ堺県ヲ廃スルノ議布告案」が提出された。太政官少書記官の伊東巳代治は、つぎのようにその趣旨を説明した。「大阪府は河川が多く、多額の橋梁堤防費を必要とし、それが府財政の負担を重くしている。各種の税収入の増加を考えてみるが、いろいろの制約があってどうもうまくいかない。府が経済的に苦しいのは管轄する地域が狭いうえに、経済的な面でそれをおぎなう方法がないところにある。そこで管轄地を広くし、地方税収入の増加をはかりたい。堺県庁と大阪府庁のあいだはあまりへだたっていないし、通信や往復に便利な関係にある。したがって大阪府が隣接の堺県を合併すれば、府の管轄地を広くし好都合である」
要するに、大阪府の財政を救うことがおもな目的だったのである。しかし、この案は、たいした異論もなく元老院会議を通過してしまった。堺県管内にあった大和国のことは、まるでかえりみられなかったのだろう。こうして、大和国は大阪府の管轄下に組み入れられることになった。堺県に合併されてこころよく思っていなかった大和の人びとは、ますますその気持ちを強くしたにちがいない。
・失うところ多く得るところ少なし
堺県は大阪府に合併されたが、大和国にとっては、失うところが多く得るところは少なかった。大阪府の行政は、瀬戸内海をひかえた摂津・河内・和泉地方の河川や港湾の改修などに重点が置かれ、大和国の住民が期待する道路の新設・改修や治山・治水、産業の興隆、医療や学校の改善などはなおざりにされる傾向にあったのである。たとえば、明治14年6月の大阪府会では、十津川郷にあった堺師範学校分校の平谷学校への地方税による支出が認められなかった。また、同年9月の府会で議事堂新築についての議論がかわされたが、大和出身の議員らは地方税が増加することを心配して、早急に事を運ばないようにと異論をとなえている。
ところが、大阪市街区出身の議員は原案に賛成するとともに、「反対論者は地方税がかさむとか、あるいは新置県のことを考えて、新築案に賛成しない」「大和国を独立させて、新しい県をつくろうとひそかに考え、議事堂新築に反対しているように思える」などと主張して、大和出身議員との議論がかみあわないままに、議事堂新築案が通過してしまうありさまであった。府会での論議のようすをみると、すでに奈良県復活をめざす声のあったことがわかる。
・府会での苦闘
大阪府会で大和出身の17人の府会議員が大和の実情をといても、なかなか理解してもらえなかった。今のように、大阪へ通勤するということは考えられないことであったので、大和の議員は、それぞれ大阪市中に自分の宿舎を持っていて、府会の開会中はそこから議事堂へ通っていた。このように交通の不便な時代、摂・河・泉の議員は、大和の実情をほとんど知らなかったし、また、知ろうともしなかったのである。それだけに、府会での地方税の支出予算の審議のとき、かならずといってよいほど大和と摂津・河内・和泉出身議員の意見が対立した。
いくつかの例をあげてみよう。
大和を含む堺県が大阪府へ入ってまもない明治14年6月の府会では、「大阪府になったから師範学校は堺や奈良には不要である。大阪に1校あればよい」とする発言に対して、大和出身の中井栄治郎は、「既設の師範学校をひとたび廃止すればふたたびつくることはむずかしい。せめて十津川郷の平谷学校だけは残してもらいたい」と反論した。恒岡直史も、大阪で学んだ人は地理的な関係もあり大和のへき地校へは赴任しないだろうと主張し、今村勤三もまた、せめて平谷校だけは残すべきだと強く訴えたが、「府下に師範学校がひとつあればよいではないか」といった大和の地理を知らない意見さえ飛び出すくらいであった。
また、この時期にはコレラの流行があり、飲み水試験をしていたが、その予算の割りふりが大阪市街区でおよそ55パーセント、郡部で45パーセントということになると、狭い大阪市中の比重が高すぎるという反対意見が出た。
そのほか、大阪市中の犯罪警備の重要性から巡査を郡部で330人減らし、市中で217人ふやすという案に対して、市中の犯罪者が郡部へのがれたら巡査不在ではどうにもならないとか、大阪は日本第2の都会であるから外国の公使の警備に人数が必要であるといった議論が取りかわされている。
はげしいやりとりとしては、三輪郡役所建築費が予算から削除されようとした同16年4月の議論がある。もともと2,740円あまりの原案であったが、いろいろな経過があって、ついには、三輪郡役所建築費1,500円と枚方郡役所人民控所建築費100円をあわせて1,600円という修正案が出された。当時、三輪郡役所の建物のいたみがはげしかったので、大和側の磯田清平議員がせめて1,800円にするようにせまった。これに対して、三輪郡役所分はやめて枚方郡役所分だけは認めよとか、三輪郡役所の建てかえは来年度以降にするか、とりあえず修繕さえすればよい、それほど急ぐ事情ではないなどという意見も出て、臨時に議長をつとめた今村はまとめるのに苦労したようだ。
このころ府会の議長は、恒岡であった。かれを中心に大和出身議員は連携を密にしながら、ことあるごとに大和国の実情をといた。こうした議員たちが中心となって、苦難の奈良県再設置運動がすすめられていくのであった。
太政官への請願
・再出発する運動
明治16年を迎えると、新年早々から、運動は新しい段階へと盛りあがりをみせた。1月5日、恒岡直史をはじめ堀山貞・岡本友三郎・梅島鼎・奥野四郎平・岩田久太郎・中尾重太郎・片岸清三郎・大森吉兵衛・福西周・森村庄一郎らは、田原本の土橋亭に集まった。
恒岡から内務省への置県請願書が却下された事情について報告があったのち、こんどは太政官へ請願しょうということを話しあった。また、各郡内でまだ同意を得ていない人びとへの呼びかけをすることも決めた。さらに、通信委員に福西を、上京委員帰着の日の接待委員に大森・福西・岡本・梅島を選んでいる。請願委員の一行が戻ってきたのは、1月20日であった。
さて、恒岡直史・今村勤三らが中心になって、急いで太政官への請願準備をすすめたが、富山・佐賀・宮崎の3県が5月9日に再置されたことで、準備にはいっそう拍車がかかった。やがて請願書の文案がまとまると、広く趣旨の徹底をはかり、賛同者の署名を求めた。
ところで、このころ元老院議官の槙村正直が地方巡察使として和歌山県内を巡ったのち、十津川郷から入って大和国を巡回している。槙村は大和国の分置県請願のことをすでに知っており、内務省への請願が却下されて失望していた大和の有志らが、3県の再置のことを知って奮起したようすを、5月31日づけで三条実美太政大臣、有栖川宮左大臣あてにつぎのように報告した。
「このたび、富山県などが再置されたことを聞くと、奈良県の再設置を望む議論がふたたび盛んになり、今月27日には奈良で集会して別紙の願書を整え、来月1日には田原本で大和全体の会議を開いて請願者の総代を選び、請願条例にもとづいて政府に出願しょうと計画している」
さらに、「十津川郷はこれまで再設置運動に加わっていないが、その理由は、管轄がたとえどのようになろうとも、世話の行き届くのは地方官に人物を得るかどうかによるという十津川郷の人びとの考えがあるためである」としるしている。なお、槙村は、「近く土方内務大輔が奈良を訪れるらしいが、そのときの応答しだいでは、請願委員らは上京をみあわせるのではないか」とも書き加えた。
・太政官への請願準備
太政官への請願に望みをかける恒岡直史・今村勤三・中村雅真ら有志19人は、明治16年6月15日、奈良南城戸町の松利亭に集まった。この集会では、請願書のとりまとめを6月30日限りとすることや、上京委員の役割などを取り決めた。請願書については、葛上・葛下・宇智・吉野・忍海・高市各郡の分は奥野四郎平、添上・添下・山辺・平群各郡は中村雅真、式上・式下・十市・宇陀・広瀬各郡は服部蓊がそれぞれまとめること、上京委員には、今村・服部・恒岡の3人を選び、出発日は7月10日とした。このとき、自費で上京する有志として片山太次郎の名をしるしている。
各郡の通信・会計担当者もつぎのように決めた。
添上郡 中村雅真 添下郡 清水小太郎 平群郡 植村彦三郎
山辺郡 中山平八郎 式上郡 恒岡賢済 式下郡 福西周
広瀬郡 三村城太郎 十市郡 松田弥五郎 葛上郡 奥野四郎平
葛下郡 小橋善太郎 高市郡 森村庄一郎 忍海郡 吉村芳太郎
宇陀郡 粉川平治 宇智郡 磯田清平 吉野郡 永田藤平
請願書取りまとめ役の奥野・中村・服部の3人と上京委員は、7月5日に式下郡唐院村の魚太亭に集まり、願書の作成について相談した。なお、上京委員の出発は、このときの会合で7月15日に変更した。もっとも、その日も上京することはできず、下旬まで延期されている。
・太政官への請願
明治16年7月下旬、先発として上京した今村勤三・片山太次郎は北畠治房のはからいで、神田区今川小路2丁目の加藤豊吉方に落ちつくことになった。今村は、中村雅真への手紙の中で、7月20日に岩倉具視右大臣が死去したために政府内があわただしくなっていることを伝え、あわせて添下郡などでは請願書に署名しない村むらが多いようなので、至急督促してほしいと依頼している。
さて、8月15日午前9時、今村と片山は太政官に出頭、三条実美太政大臣にあてた「大和一国ヲ大阪府ノ管下ヨリ分テ別ニ一県ヲ立ルヲ請フ願書」を、大和15郡中868か町村有志、奈良手貝町片岸清三郎ほか2万1,717人の連署をつけて提出した。そこで、面接した係官から追って呼び出しがあるまで宿舎で待つようにと指示された。このとき提出した願書では、分置県の願いが単に一時の思いつきから出たものではないことを強調し、ついで、「大和ヲ以テ別ニ立テテ一県トナサン」とする理由をつぎのように述べている。
「まず道路の整備が急務であり、このことは大和の人民の幸不幸や物産の興隆におおいにかかわることである。大阪府では、淀川・神埼川・中津川・安治川・木津川・大和川・石川などの治水費が高くつく。大和川のうち、実際に治水費支出の対象となるのは摂・河・泉に属する部分である。そのため地方税支出のなかの河堤の費用は、摂津等のために使い、多額の費用を必要とする大和の道路についての支出部分は、ごく一部に過ぎない。大和国の改良をはかるための政策を期待するのは、――百年河清ヲ俟ツ――ような気持ちである。したがって、道路の整備などの機会を早くつくるためには、大和国だけの一県が必要である。また、大和国が堺県に合併されたために、大和で計画していた事業で中止となったものは多く、大阪府への合併後もそのままになっている。一方、府県の費用はたいてい地方の負担で、再設置のために政府費用が増加するのは県令など官員の俸給ぐらいである」
太政官に願書を提出したその日の午後5時、今村らは参議山形有朋邸を訪ねたが不在で面会することはできなかった。また、翌16日にも早朝と夕刻の2度訪問したが、この日も面会は許されなかった。こうしたなかで、17日に片山が帰国するのである。
今村にとっては、納得できないことであった。この行動はどうやら北畠らの指図にしたがうばかりでは目的が達成できないと考えた片山が、国もとの有志の意思を強く反映させようとしたからであろう。その対立は、県庁の位置をどこにするかというかねてからの問題も原因であった。22日に大阪へ帰着した片山は、さっそく相談しなければならない重要なことがあるので、通信委員や郡ごとの総代らと協議したいと中村に手紙を送っている。
一方、今村は片山が在京中は請願のしかたについて一言の意義もなかったのにと不思議がりながら、不満を述べている。県庁の位置の問題での不統一が表面化することは、再設置運動の足を引っぱりかねないと考えていたからである。そこで両者の衝突を心配した服部蓊と福西周は恒岡直史らと相談し、その調停に乗り出している。
・陳情の日々
明治16年8月18日以後、今村勤三はひとりで各方面への働きかけに努めた。18日の早朝、内務卿山田顕義邸を訪ねて太政官へ提出した願書の写しを執事に手渡したあと、太政官に出頭した。内閣書記官局の係官から、願書正本に大和国人民総代としての署名捺印を求められたが、この日は実印を持っていなかったので、後日にまわしてほしいと頼んだ。20日には、ふたたび山県・山田の両参議邸を訪ねたが面会は許されず、その後、太政官に出向いて署名捺印をはたしている。21日に、税所篤を訪ねたところ、たまたま大和出身の森山茂元老院大書記官も来あわせたので、今村はこれ幸いと熱心に請願の趣旨を語るのであった。
8月27日に、今村は大阪にいた恒岡直史や奈良の中村雅真にあてて、その後のようすを書き送っている。それによれば、「山田邸には6度も訪れたが面会はできず、山県邸では7度目になってようやく面会を許された。かりにも一国人民の総代として訪問しているのに、なかなか面会を認めてもらえない。腹立たしいことだが、国家の政権をにぎっている有力者なので多忙なことなのだろう。やむを得ない。大臣や他の参議にも大和の置かれた事情を述べたいところだが、なんとしても、まず山田・山県両参議に賛成してもらうことが、目的をはたす早道だという税所らの意見もあり、そのとおりだと思う。税所は、西郷従道・松方正義など薩摩出身の参議を訪ねるにはおよばない。なぜなら、かれらは奈良県再設置のことはだいたい賛成しているのだからと言っている」と伝えている。
さらに今村は、長州出身の実力者である山田参議を、たとえ何十回になろうとも訪ねて、面会をはたそうという決意も述べるのであった。それにしても、政府の有力者に面談を求めることは大変なことだった。
「一参議ニ面会セントスレバ一週間ヲ費サザルベカラズ、是ノミ困却致シ候」といかにも困ったようすを書きしるしている。
・心を動かす山県有朋
明治16年8月23日、今村勤三は山県有朋邸を訪ね、数時間待たされたあと、やっと面会を許された。今村は、
「富山・佐賀・宮崎の3県が再置されましたのに、大和はその幸を得ることができません。この3県がそれぞれ合併されていたときの事情と、大阪府下の大和の事情とになんら違いはありません。むしろ地理・人情などではこちらのほうがおおいに異なります。また、大阪府会のようすも前年度と変わらず、大和にとっては不利なものがあります。そんなわけで私は大和15郡中868か町村2万1,718人の署名者の総代として、太政官に請願書をさしだしました。どうかこうした事情をお察しください」と熱意をこめて訴えた。さらに言葉をついで、
「大和では、道路を開き、河川を改修して車や舟を通わせ、産業の発展をはかりたいのです。そうでないと大和は進歩することができません。大阪府知事も決して大和のことを度外視されているわけではありませんが、内外人が寄り集まる大阪4区と近接の郡部のことに追われて、山をへだてた大和のことにまでは手がまわらないものと思われます。大阪府に合併されて以来3年になりますが、知事や書記官はまだ大和を一巡されたことさえございません」と申し述べた。
今村の熱弁に聞きいった山県は、
「大和の請願のことは今度はじめて知ったので、前の願いが却下された理由などは知らない。かならず山田内務卿に問いあわせ、私も考慮してなんとか検討しよう」と心を動かしたようだった。
そこで、今村はすかさず、
「大和国の請願は何党とか何派とかの扇動によるものではなく、大和の人民の心からの請願でございます」と重ねて力説した。
山県は、府や県の範囲は地理・人情・風俗の違いによって決めるものであるとか、吉野郡の管轄のことをたずねるなど、請願にかなりの関心を示した。
しかし、9月1日に訪れた今村に対し、税所篤は、
「政府の有力者はあまり大和国のことはご存じない。ことに伊藤博文参議らは奈良の町でさえご存知でないということだ。そんなわけだから、なんとかして請願をとりあげてもらって大和に県庁を置き、いろいろな施策を実行してもらわないと大和の開発は望めない。大和出身の森山などには公然と再置県のことに尽力願うがよい。君たちは政治犯のように思われているかもしれないが、請願の趣旨は政府内でもそのうちわかってもらえるようになるだろう」と語っている。
このころの政府の有力者たちにとって、大和国などは眼中になかったらしい。このような情勢のなかで、今村は9月5日には土方久元内務大輔に面会、6日は内務卿山田顕義邸を訪ねたが不在、7日は外務卿井上馨邸を訪ねたが面会できなかった。8日にはふたたび山田邸を訪問、不在、つづいて伊藤参議を訪問するが不在、ようやく芳川顕正内務小輔に面会して、大和国の事情を説明できるというきびしい日程であった。
・またも却下
今村勤三は、その後も政府の有力者を訪ねて精力的な陳情をつづけた。太政官へ請願書を提出して20日あまり、なんの音沙汰もなく気をもんでいたところ、9月10日に出頭するようにという連絡がようやく届いた。当日期待をもって、勇んで太政官に出向いた今村は、思わず耳をうたがった。大和の国の分離独立の願いは「規則第一三条ニ依リ建白ニ属スベキモノナレバ、元老院ニ差出スベキ旨口達ヲモツテ却下」されたのである。
無念やる方ない今村は係官に却下の理由を問いただし、書記官にも面会を求めたが、係官はただ、「書記官方は多忙で、たとえ面会しても、私が述べたところと異なるところはありません」というだけで、とりつくしまもなかった。
今村はもはや「其筋ヘ建白スルノ外アルベカラズ」と、決意しなければならなかった。
残された道
―― 元老院への建白
・建白書の作成
明治16年9月10日、太政官への請願が却下されたので、今村勤三はさっそく東京の有力な知りあいに相談したところ、建白書を出さなくてはとの意見が強かった。そこで、
「ひきつづき建白したほうがよいかどうか」
「建白書を整え、これを持って9月25日ごろまでに委員ひとりを上京させてくれるかどうか」
「委員が上京するまで私は東京に滞在したほうがよいか」
の3点について、国もとの同志に問いあわせた。
あわせて建白書案は数日中に作成したうえ、国もとへ郵送する予定も知らせている。
これを受けて大和では、9月22日、土橋亭で元老院への建白についての会合が持たれた。このときの決議は、つぎのとおりである。
1、建白書への押印は多いほどよいが、急を要するので各郡2人をくだらないようにすること
2、押印を求めるための担当者は、添上・添下・山辺・平群郡は中村雅真、式下・広瀬・葛上・忍海・葛下・宇智郡は福西周、式上・高市・十市・宇陀・吉野郡は恒岡賢済とすること
3、9月29日に土橋亭に集まって上京委員1人を選び、また建白書の編集を行うこと
こうした運動とは別に、中村は9月28日、なんとしても県再設置の願いが聞き届けられるようにと、さきに地方巡察使として大和を視察したことのある槙村正直元老院議官につぎのような陳述書をさしだした。
「大和の分置県請願のことは、明治9年4月に奈良県が廃されて堺県に合併されたときにすでにはじまっている。このとき、復県の嘆願をしようと騒動がおこったが、たしかな理由や経験もないのに、政府に嘆願するのは具合が悪いととく人もあって中止になった。こんどの太政官への請願がしりぞけられたことは残念であり、868か町村、2万1,718人の大和国の人びとの失望がいかに大きかったか――述ブルニ言ナク書スルニ語ナシ、天ヲ仰ギ地ニ訴ヘ慨歎ニ堪ヘザルノミ――。閣下、どうか事情をお察しいただいて、願いが是非とも聞き届けられますようごあっせんください」
今村は、大和の国もとで建白書が早々に整えられ、それが手もとに届けられるのを一日千秋の思いで待ちに待った。9月29日の土橋亭での集会の結果を知らされていたからである。10月5日づけで今村が恒岡直史に送った手紙では、
「大阪府知事の添書ももらって、すでに東京へ郵送済みのこととは思うが、いまだに到着していない。なにか事故があって延びるようなようすであれば、早く解決して一刻も早く送付してほしい」と督促している。
・元老院への提出
大和の国もとで用意された建白書は、明治16年10月上旬に今村勤三のもとに送られた。ところが参考につけることになっていたさきの太政官への請願書などは、船便で送られたために、途中暴風雨にあってか到着が遅れた。すでに、元老院へ建白書提出の手はずを整えていた今村も、「天災如何トモナス能ハズ」と、やり場のない気持ちを押さえきれなかった。
ようやく15日に船便の書類も手に入ったので、翌16日午前9時、今村は元老院に出頭し、大和の各郡町村67人の有志が連署した佐野常民元老院議長あての「大和国置県之建白書」を提出した。
そのとき、係官にその趣旨をつぎのように述べている。
「大和国は摂・河・泉三国と風土・人情や地方経済の利益が相反し、異なるところがあります。昨年内務省に請願して却下になりましたが、本年太政官に請願、請願規則第13条により当元老院へ建白するようにと諭されたのです。参考としてさきの請願書を添え、建白することになった理由もくわしく述べますので、事情をお察しくださって、私たちが抱いているこころざしが貫徹できるようご評議してください」今村が建白することになった理由を述べたところ、係官は、「なにぶん50人の議官が回覧したのち意見を議長に提出し、議長は、この件が地方に関することなので内務卿に書類をまわすため、簡単にはすみますまい」と答えている。
建白書の提出にあたって今村は、恒岡直史・服部蓊への手紙のなかで、「当年度中ニ目的ヲ達セザレバ、亦容易ノ場合ニハアラザルナラン」と心配もし、意気ごんでもいた。しかし、予想していたほどにことは簡単に運ばないと知り、10月末に数か月ぶりで大和へ帰った。
・運動の建て直し
ところで、元老院へ建白書を提出した翌日、10月17日、国もとではあくまでも県再設置の実現を願望する恒岡直史・服部蓊・中山平八郎・吉村芳太郎・中村雅真ら33人が相談のうえ、盟約証書をまとめている。
1、同志は県再設置の実現を目的とするものであること
2、目的を達するまでは、どんな困難にも耐えること
3、目的を達するために必要な資金は各人が負担すること
4、どんな場合にもこの盟約にそむかないこと
これが盟約の内容であった。
それは、何ものにも負けない精神をもってあくまでも奈良県再設置を実現し、大和の幸福を得ることに努めようとする固い誓いであった。
さて、大阪府の建野郷三知事は、奈良県再設置運動について、主唱者のひとりである恒岡が府会議長であるということからも、強い反対を表すことはなかった。請願や建白にあたっては知事の添書が必要で、たとえば元老院などから事情を聞かれたときには、知事として努力することを約束している。
しかし、知事は、「富山・佐賀・宮崎の各県再置のことも、内務卿はくわしくはご存じないほどのことだから、大和のことはせいぜい注意しておいて話をするようにしたい。けれども再設置のことは、内閣や法律規制案の起草や審査にあたる参事院の権限に属することなので、実際どのようになるかわからない」と語っている。ここでも、この運動のむずかしさは暗示されている。
・再度建白を
元老院からまったく音沙汰がないまま明治16年は暮れ、翌17年を迎えた。明治9年以来廃県となっていた徳島県はすでに同13年3月に、同じく鳥取県は14年9月に、また、富山・佐賀・宮崎の3県は16年5月にそれぞれ復県している。しかし、大和国は分置県が認められずに取り残されていたのである。同17年1月7日、24人の有志は郡山柳町の常福寺に集まり、元老院へ建白書を再提出することを決めた。そして、各郡からも幹事を選び、その幹事のなかから総代を選ぶこと、各幹事はその郡内の篤志者に誘いをかけ、趣旨に賛同してもらうようにするというのがその大筋であった。つづいて会場を同じ郡山柳町の笹屋彦三郎亭に移し、さらに具体的なことを相談した。
その内容は、
1、再提出の時期を決めること
2、建白書の起草委員は幹事のなかから選ぶこと
3、運動資金は賛同者から1円ずつ集めること
4、会計委員を選ぶこと
5、多少でも負担する人があれば賛成者とすること
6、運動の趣旨を守るのでなければ連署は認めないこと
などであり、より一層結束を固めようとした。
各郡の幹事はつぎのとおりであった。
添上郡 中村 雅真 添下郡 山下千太郎 平群郡 今村 勤三
山辺郡 中山平八郎 式上郡 恒岡 直史 式下郡 服部 蓊
広瀬郡 中尾重太郎 十市郡 松田弥五郎 葛上郡 奥野四郎平
葛下郡 小橋善太郎 高市郡 山田 善七 忍海郡 吉村芳太郎
宇陀郡 粉川 平治 宇智郡 磯田 清平 吉野郡 岡本 徳永
なお、幹事総代は今村勤三、会計委員は奥野四郎平・服部蓊・中村雅真であった。
こうして決意を新たに、再建白のスタートがきられた。同年2月25日、御所の玉平亭で会合が持たれた。このとき、上京委員を2人選び、4月中に上京することを予定する一方、建白書の起草委員には恒岡・今村・服部の3人を選び、さらに運動資金をおよそ500円と見込んだ。4月3日、大阪槌谷横町の小守亭での会合では、第2回の建白書は大阪府を経由して郵送することにし、6月30日までに3回目の建白書を委員が上京してさしだすことを決めている。
つづいて4月25日には、田原本の浄照寺で会合を持ち、分担金は5月30日までに集めることを決めるなど、機運はおおいに盛りあがった。再設置運動のリーダーのひとりであった恒岡は、府会議長という要職についていたが、今度こそ建白の先頭に立とうとする気力に満ちていた。たとえきびしい困難があってもそれにくじけず、繰り返し元老院に訴える、という強い姿勢でのぞんだのである。
・沈滞する運動
明治17年5月13日、再建白書は、恒岡直史・今村勤三ら50人の連署をつけて、佐野常民元老院議長あてに提出された。この再建白書では、これまでの請願書やさきの建白書と同様に、大和国が摂・河・泉の3国と同じ大阪府政のもとにあることの不利不便さをとき、同一の管轄にあることは、まるで「氷炭器をひとつにするようなもの」とたとえている。つまりつめたい氷と熱い炭を同じ器に入れるようなものだというのである。そして、
「大和の面積は大阪府下全部の3分の2をしめ、人口は47万6,000人あまり、地租とその他の国税・地方税をあわせて100万円あまりも納めている。一方、吉野・宇陀の良材は、舟や車の利便に恵まれないので生かされない。だから道路を開きこれらの輸送をはかることが今の急務といえる。ところが、府会では大和出身の議員数が少ないので、大和側の意見は採用されにくい。このようなことから、わが大和にとって不利不幸と考えられることはずいぶん多い。風土・人情が異なり、利害得失を同じにしない摂・河・泉の人民と、社会全般の喜びや憂いをともにし、共同の事業を成功させようというのは――実ニ言フベカラザルノ不幸、堪フベカラザルノ不利――である」と述べ、さらに、
「さきの大和の分置県請願がしりぞけられたのち、わずか数か月たって富山・佐賀・宮崎の3県は分置されている。大和は分置県の理由が少ないと誤解されたに違いない。しかしすでに分置された他の県と比べてみても、大和が大阪府からわかれて一県をつくるのは、当然のことである。早く分離・独立が実現しなければ、人びとの心はたがいに離れ、おだやかな大和の人であっても、いろんな弊害が生まれてくると思われる。こうした点を配慮して、わが大和の民の懇望するところをどうか採用されて、佐賀・宮崎などの人民と同じような幸せをおあたえください」と結んでいる。
しかし、誠意をもって懇願したこの再建白も、またもや実らなかった。これまで数年間にわたって繰り返してきた上京や各集会などには多額の費用を必要とした。それらはいずれも盟約に加わった有志の負担であったので、しだいに運動から手を引く人も出てきた。このように分置県を認める政府の返事がなかなかもらえないことを皮肉って、「高天原への郵便に回答のある筈はあるまい」と、運動に奔走する有志へのあざわらいの言葉がささやかれたという。また、「奈良県は若木の柿にさも似たり なるなる言ふていつかなるやら」といった狂歌までうたわれる始末であった。
あくまで再設置を求めて
・深まる苦悩
明治18年7月1日、瀬戸内から近畿地方は、台風のため大風水害にみまわれた。大和の被害も大きく、河川の決壊や山くずれがおこり、盆地部では床上浸水が目立った。ところが、このときも巨額の復旧費はほとんど摂・河・泉に割り当てられ、大和はなんらかえりみられない状態であったので、いったん下火になっていた奈良県再設置運動の声がふたたびわきおこってきたのである。けれども、これまでの苦しい経過が思いかえされたのであろうか、なかなか同志は得られなかった。翌19年4月1日になって、御所の芦高楼で集会が開かれた。ここでは、「朝日新聞」と「内外新報」に広告文をのせて、広く有志の意見を求めることが決められた。広告は「本月十一日大和置県請願ノ有志会ヲ開カントス、御同意ノ諸君、同日午前十時田原本土橋亭ヘ御臨会アレ、但会費ヲ要セス、有志幹事」という文面であった。
4月11日の集会では、ともかくも建白書を提出するために委員2人を上京させることを決めている。ついで5月6日には、興福寺南円堂の庫裏で請願のための有志会を開いた。この会合では、同月11日に土橋亭で集会を開くこと、遊説委員を各郡に派遣し参加を求め、委員の上京は5月下旬を過ぎないようにすることなどをまとめた。
5月11日の集会を知らせる広告は、「有志諸君ヘ告グ」と見出しをつけ、本文中に「我大和国人ハ愛国ノ思想ニ乏シキカ、諸君ハ昨年洪水ノ為メ巨額ノ膏血ヲ摂河泉三国に輸入セシヲ知ラサル乎」とかかげたうえに、今までたびたび集会への参加を求めたが、ごく小数の有志が集まっただけである。実になげかわしいことであるとしるして、多くの来会者を誘おうとするものであった。
5月28日にも、引きつづいて土橋亭で集会が持たれている。このときは、前部重厚・福西周・恒岡賢済ら13人が集まり、遠く吉野郡からも参加する人があった。この集会では、上京委員は恒岡直史のほかひとりを選び、委員の出発は6月10日とすること、通信委員は中村雅真に委託することなどを決めた。しかし、この19年の願い書は、今村勤三・恒岡直史・服部蓊と中村雅真の4人が連署しただけの貧弱なものであったと、のちに中村は回想している。やはり、この建白も政府を動かすことはできなかった。同年12月22日づけの「朝野新聞」は「奈良県再設置運動、許可に難色あり」と報じ、再設置のことは、今のところ内務省で取り調べ中だが、許可されないだろうとのうわさがあることを伝えている。
・最後の努力を
繰り返しおこなった奈良県再設置の運動は実現しないまま月日を重ねた。運動をすすめた人たちの挫折感は、察するに心が痛む。しかし、冷ややかなまなざしを受けるかれらの胸中には、今一度の思いが高まってくるのであった。ときは、明治20年になっていた。政府はすでに明治18年の暮れに内閣制度を創設し、同23年からの国会開設にそなえて、政府の態勢を固めているところであった。その内閣は、いぜんとして薩長藩閥の勢力均衡がはかられたままであった。このようななかで同20年、全国的に土地測量がおこなわれたが、このとき地価の修正があり、同じ大阪府管内でありながら、大和はそのままで、摂・河・泉は、100円につき5円の割合で引きさげてもらえることになった。地価が下がれば地租は少なくなるので、ことのなりゆきは大和にとっては深刻な事態であった。独立した県があればという思いが、再設置に奔走してきた有志をはじめ多くの人びとのあいだに、ふたたびわきあがってきた。
このような状況や、府県制の実施をひかえて、今度こそ再設置を勝ちとらないと、もはや奈良県の独立は不可能というせっぱつまった気持ちが、恒岡直史・今村勤三らの胸の内に盛りあがっていった。9月末に、分置県と地価修正の願いをもって上京した恒岡直史・中山平八郎ら5人は、まず東京のきびしい雰囲気に驚いた。東京の町では幕末に結ばれた不平等条約の改正案をめぐる反政府運動が盛んであり、また国会開設を3年後にひかえていたため、いろいろの集会が持たれていた。政府はこうした動きを取り締まるため、請願や建白を理由に大臣らに面会を求めることや、集会・示威行動を制限していたのである。そのような状況の東京で、上京委員は反政府運動の人たちと、同じでないことを証明しなくてはならなかった。そうでないと、東京からの退去を命じられることになる。これまでにも在京中にはなにかと世話になった人たちに上京の趣旨をといてまわった。
・ようやく明かりが
きびしい取り締まりのつづいていた東京で恒岡直史らの一行は山県有朋内務大臣に奈良県再設置の件を請願する一方、松方正義大蔵大臣に対しては地価修正のことを嘆願しようとした。明治20年10月5日、税所篤の斡旋があったのだろうか、ようやく松方大蔵大臣に面会を許された一同は、大和の置かれた苦しい立場を誠心誠意訴え、地価の修正を請願した。
しかし、その願いを聞き終えた松方は、大隈重信大蔵卿のときにおこなった地租軽減のさい、どうしたわけか大和はもらしてしまったので、地価修正の件はいまさらどうしょうもない、と答えてことわったという。これに対して恒岡ら一同は、大隈大蔵卿による地租軽減のときに大和だけもらしたという大臣のおっしゃることはおかしい。そのさいには大和も地租は軽減されている。われわれの願いをことわるために適当なことをおっしゃっているのに違いない。われわれはいまさらそんな昔のことを言っているのではなく、今回の地価修正で大阪府のうち大和だけが除外された件について閣下の再考をお願いしているのだとつめよると、松方は、「余はいやしくも、大蔵大臣であるゾ」と激怒して手近にあったたばこ入れを投げつけた。大蔵大臣のそうしたはげしい怒りの言動に、一同は肝を冷やし震えあがった。しかし、一同のなかでもとりわけ豪胆な中山平八郎は、臆せず冷静に、
「わたくしたち田舎者の粗野な言葉づかいが閣下のお怒りに触れましたことは、誠に申し訳ございませんでした。しかし、大和一国の代表者として閣下のもとにまいりました限りは、是が非でも目的を達成しょうという熱意にかられ、つい閣下の御前であることを忘れてしまったのでございます。現在、閣下は維新の功労者として政府の要職についていらっしゃいますが、維新のさい、閣下の眼中には幕府を倒して新しい国家を建設することだけがあり、その他のことはお考えにならなかったのではないでしょうか。わたくしたちが申しあげていることはあまりにも小さく、比較するのは恐縮なのですが、このようにお願いするのも、大和一国を救おうとしてのことなのです。それなのに、かえって閣下のお怒りをかうことになり、もし、それを理由として地価修正・地租軽減のことが認められないならば、わたくしたちはもはや生きて大和には帰れません。わたくしたちにふたたび故郷の土を踏ませてください」とひたすら懇願した。
松方は、一同のこうした不躾な態度に、怒りながらも中山の懇願を聞くうちにやがて、「地価修正・地租軽減を大和にも適用することはいまさらできない。ただこのままではきみたちが大和に帰りにくいだろう。かわりになにかみやげを用意しょう」と答えたという。かれらの請願の真の目的がどこにあるかを十分に承知していたのである。松方は、国家の財政を預かる大蔵大臣として、いまさら減租の件を承認するよりも、大和の人びとの多年にわたる願いである分置県を認めたほうがよいという気持ちになったのであろう。松方は暗に奈良県再設置について、政府内で尽力することを約束してくれたのである。一条の光明をみる思いとはこうしたことをいうのだろう。